CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
華覈
孫皓の宮殿造営を諫め、百余の上書を重ねた呉の史官
華覈は、字を永先といい、呉郡武進の人です。文才で秘府郎に入り、中書丞に進み、孫亮の時代に、韋昭・薛瑩らとともに『呉書』の編纂に着手しました。蜀が魏に滅ぼされたと聞くと、宮門へ行って上表し、悲しみを訴えています。孫晧が即位すると徐陵亭侯に封じられ、宝鼎2年(267年)に、孫晧が盛夏に珠玉で飾った新宮を造営すると、農事と守備が廃されるとして上疏で諫めました。「この宮殿が完成するまでに5千人が死んだり逃げたりすれば、北軍の兵力は実質で5万人増える」と、兵力の損失を具体的に示しましたが、採られませんでした。天紀2年(278年)に没しました。経歴は『三国志』呉書 華覈伝をもとにしています。
字は永先。呉郡武進の人。文才で秘府郎・中書丞となり、韋昭・薛瑩らと『呉書』の編纂に当たった。蜀の滅亡を聞いて宮門に上表し、孫皓の時には、宝鼎2年(267年)の夏の宮殿造営を、兵力と農事の面から諫めた。上書は百余に及んだ。天冊元年(275年)に免職され、天紀2年(278年)に没した。
THE WAY OF LIFE
華覈の生き方
孫皓の命で、立ったまま文章を草する場面でも、恩に報いたいと謙虚な辞を書いた。文才と謙虚さを併せ持つ人です。
数字と古典を使って、造営の被害を具体的に示す上疏を重ねた。表現は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
賈誼の故事、蜀の滅亡、交州の守りなど、具体的な事例で現状を示す説得力。造営の死亡・逃亡による兵力の損失を数字で示す実務感覚。女性の織布や服の贅沢の禁止など、国を富ませる具体案。『呉書』の編纂に関わった史官としての筆力。一方で、孫皓は上疏を採らず、華覈は実際に政を動かす立場にはなかった。陳寿も、世の乱れに名位を得て、強いて死ななかったことを、免れて幸いと評した。統率は、記録がなく低めに置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安24年(219年)〜天紀2年(278年)
呉郡武進(現在の江蘇省丹徒)の人。字は永先(『建康実録』は永光とする)。官は東観令・右国史。徐陵亭侯。
- 呉郡武進の人で、字は永先。はじめ上虞尉、典農都尉となり、文才によって秘府郎に入り、中書丞に進んだ。孫亮の時代に、太史令の韋昭、薛瑩らとともに『呉書』の編纂に着手した。
- 蜀が魏に滅ぼされたと聞くと、華覈は宮門へ行って上表した。「蜀の地は険しく、憂いはないと思っていました。ところが陸抗の上表が届き、成都は守られず、君臣は流れ去り、社稷は倒れたと聞きました。昔、衛が翟に滅ぼされたとき、斉の桓公が存続させました。いま道は遠く、救うことはできません。臣は憂い悲しむ気持ちに堪えず、拝して上表します」。
- 孫皓が即位すると、徐陵亭侯に封じられた。宝鼎2年(267年)、孫皓は新宮を造営し、珠玉で飾って、費用は莫大だった。盛夏の工事のため、農事と守備の両方が廃された。華覈は上疏して諫めた。
- 華覈は、漢の文帝のころ、天下は安定して見えたが、賈誼だけは、痛哭すべき事が3つ、長嘆すべき事が6つあると見た、と述べた。そして、「今は大敵が九州の地を占め、民の大半を擁している。賈誼の『火を抱いて薪の上に臥す』という例えは、今のほうが切迫している」と書いた。
- 蜀の滅亡について、「蜀は西の藩屏で、土地は険しく堅固で、守りは長く保つと思われたが、一朝にして滅びた。唇亡びて歯寒しは、古人が恐れたことです」と述べた。交州の交趾・九真が陥ち、日南は孤立して危うく、合浦以北の民も動揺している、海上の賊が東の県を窺い、前後に敵を抱えている、これが国家の危急存亡の時だ、と訴えた。
- 『月令』は夏の末の月に土木工事や大軍の動員を禁じている、魯の隠公が夏に中丘で城を築いたことは『春秋』が書いて戒めとした、と古典を引いた。そして、「この宮殿が完成するまでに5千人が死んだり逃げたりすれば、北軍の兵力は実質で5万人増える。1万人なら10万人になる」と、兵力の損失を具体的に示した。
- さらに、「前代の君主は、3年分の備蓄がなければ国とは言えないと言う。まして敵が強大なのに農を軽視している。州郡の米は有事のために取っておくべきだ。もし北の敵が来れば、周公・召公が再び生まれ、張良・陳平が再び現れても、陛下のために計を立てることはできない」と述べた。孫皓はこの上疏を採らなかった。
- のち東観令に進み、右国史を兼ねたが、華覈は上疏して辞退した。孫皓は「卿は典籍に精しく、博く覧み多く聞き、礼楽を悦び詩書に敦い者だ。飛翰して藻を騁せ、時事を光賛し、楊雄・班固・張衡・蔡邕の疇を越えよ。謙遜して退いてはならない」と答えた。
- 倉廩に備蓄がなく、世の風俗がますます奢侈になると、華覈は『務農禁侈』の上疏を上げた。民の力を考えずに、都下の官が期限を迫り、農時を奪って賦税を取るので、家々が貧困に陥っている。軍が起きて百年近く、農は畝を荒らし、女は機を止めている、と述べた。
- 「君が民に求めるものは二つあり、民が君に望むものは三つある」。二つは、民が君のために労し、君のために死ぬこと。三つは、飢えた者に食べさせ、疲れた者を休ませ、功ある者に賞を与えること。民が君の二つに応えているのに、君が民の三つを果たさなければ、怨みが生まれて功は成らない、と説いた。
- そして、民の風俗は奢侈に傾き、工匠は無用の器を作り、女は綺麗な衣を作っている、兵や民の家でさえ、家に一石の蓄えもなく、外に出ると綾絹を着ている、と挙げた。吏士の家の女を10万人と数え、一人が一年に布一束を織れば10万束になる、数年で布帛が積もる、と具体的な案を述べた。「美しい人は華やかな彩りを加えなくても美しい」と述べ、無益な装飾だけを禁じるよう願った。
- 孫皓は、華覈が年老いているため、清書していない草稿のままの上奏を許したが、華覈は敢えてしなかった。そこで、文章を起草せよと命じ、立ったまま待たせた。華覈は「咨、華覈は小臣で、草芥の凡庸な者です。聖君に値遇し、特別な恩を受けました」と始まる謙辞を書き、恩に報いたいが、勅命に背けず、誅を招くことを恐れる、と述べた。
- 華覈は、前後に便宜を陳べ、良能を推薦し、罪過を解釈(弁護)して、上書は百余に及び、いずれも補益があった。作品として、陸胤を薦める『奏薦陸胤』、陸禕を薦める『表薦陸禕』のほか、楼玄の赦免を請う『乞赦楼玄疏』、薛瑩の召還を請う『上疏請召還薛瑩』、韋曜を救う『上疏救韋曜』が残る。
- 天冊元年(275年)、些細な過失で免職され、天紀2年(278年)5月に没した(60歳)。韋曜と華覈が政事を論じた上表や奏疏は、世に広く伝わった。
- 陳寿は「華覈の文賦の才は韋曜に過ぐるが、典誥は及ばない。しばしば良規を献じ、自ら尽くそうとする姿を見た。忠臣に近い。しかし無妄の世に名位に居り、強いて死ぬ理はないが、免れたことを幸いとするだけだ」と評した。葉適は、王蕃・楼玄・賀邵・韋昭・華覈らを、孫皓の酷暴の下でも残った人々として、『殷に三仁あり』になぞらえて嘆いた。
- 『三国演義』第120回では、孫皓が蜀への復讐を図ったとき、華覈が「麻を着て火を救うようなものです」と諫めて、孫皓に怒られ、殿を追い出される。華覈は「惜しいかな錦繍の江山が、まもなく他人のものになる」と嘆いて隠居した、とされる。
主な出典
『三国志』呉書 華覈伝(百度百科が引く本文)、『建康実録』、陳寿・葉適の評、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
季節や礼の規範『月令』を引いて農事を優先し、孫皓にも筋道で訴えた行動から、規律は高めに置いています。
農事の時期や民の疲弊を理由に諫め、罪を得た人々のために上書した行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。