CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
臧覇
護送中の父を奪い返し、青徐を任された泰山の将
臧覇は、字を宣高といい、兗州泰山郡華県の人です。十八歳のとき、不当に捕らえられた父を、食客数十人を率いて護送の途中で奪い返しました。のち陶謙に従って黄巾を討ち、徐州で孫観らと勢力を築いて開陽に駐屯します。呂布の敗死後は曹操に見出され、琅邪国相として青州・徐州を任されました。官渡の戦いでは青州に繰り返し侵入して袁紹を背後から牽制し、曹丕の代には鎮東将軍となります。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は宣高。別名は奴寇(『魏略』)。兗州泰山郡華県の人。父の臧戒は県の獄掾で、法を守り、太守が私情で囚人を殺そうとするのに従わなかった。怒った太守に捕らえられたとき、十八歳の臧覇は、食客数十人を率いて費県西の山中で、護送の百人あまりから父を奪い返し、東海郡へ逃れた。これで勇ましさが世に知られた。黄巾の乱が起こると陶謙に従って黄巾を破り、騎都尉となった。のち徐州で兵を集め、孫観・呉敦・尹礼らと勢力を築き、臧覇を統帥として開陽に駐屯した。197年、莒県で琅邪国相の蕭建を襲って破り、救いに来た呂布を城に拠って退けたのち、呂布とは和解した。198年、曹操が呂布を討つと、臧覇らは呂布に味方したが、呂布が捕らえられると臧覇は身を隠した。曹操は探し出して会うと喜び、孫観らを招かせた。曹操は臧覇を琅邪国相とし、青州・徐州を委ねた。
THE WAY OF LIFE
臧覇の生き方
十八歳のとき、不当に捕らえられた父を、食客数十人を率いて護送の途中で奪い返した。護送の百人あまりは、誰も動けなかったという。この一件で、孝と勇で名が知られた。
曹操が、亡命してきた徐翕・毛暉の首を求めたとき、臧覇は、「私が自立できたのは、このようなことをしなかったからです。曹公の恩は裏切れませんが、王者の君は義をもって告げるもの、どうか将軍から断っていただきたい」と、使いの劉備を通じて述べた。曹操は「古人の行いを、君は行える。それが私の願いだ」と嘆息し、二人を郡守にした。
持ち味と、その裏側
軍を率いる力と、義理を守る姿勢。曹操が袁紹と戦うあいだ、青州に繰り返し侵入して、東方の憂いを抑えた。陳寿は、李通・文聘・呂虔と並べて「州郡を鎮め守り、威と恵みを著した」と称え、孫盛は若い頃の孝を、盧弼は青・徐を守る任の重さを称えた。一方、曹丕に兵権を取り上げられた理由は、『三国志』本伝には書かれない。『魏略』は、曹休に「万余の歩騎を借りれば江表を横行できる」と語り、曹丕に疑われたためとするが、本伝との食い違いが大きい。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜明帝の時代
兗州泰山郡華県の人。字は宣高。父は臧戒。
- 18歳: 父の臧戒が不当に捕らえられると、食客数十人を率いて費県西の山中で護送中の父を奪い返し、東海郡へ逃れた。
- 黄巾の乱の頃: 陶謙に従って黄巾を破り、騎都尉となる。
- のち: 徐州で兵を集め、孫観・呉敦・尹礼らと勢力を築き、臧覇を統帥として開陽に駐屯した。
- 197年: 莒県で琅邪国相の蕭建を破る。呂布が高順の諫めも聞かずに攻め寄せたが、城に拠って退けた。のち呂布とは和解した。原因には、蕭建の輜重を奪ったためとする説と、呂布に約束した財貨を送らなかったためとする説がある。
- 198年: 曹操が呂布を討つと、臧覇らは呂布に味方した。呂布が捕らえられると身を隠したが、曹操は探し出し、会うと喜んで、孫観らを招かせた。琅邪国相となり、孫観は北海相、呉敦は利城太守、尹礼は東莞太守に任じられた。青州・徐州は臧覇に委ねられた。
- 199年: 曹操の命で青州に侵入し、斉国・北海・東安を破る。亡命した徐翕・毛暉の首を求められたが、義を理由に断り、曹操に認められた。官渡の戦いでも、精兵を青州に入れ、曹操が東方を気にせず袁紹と戦えるようにした。
- 205年: 曹操が袁譚を破ると祝賀に赴き、子弟と諸将の父兄・家族を鄴に送ることを願い出た。曹操は「諸君の忠孝は、そこまでしなくても疑わない」と述べた。東州を静めた功で列侯に封じられ、臧覇は都亭侯、威虜将軍となる。
- 206〜207年: 于禁とともに昌豨を、夏侯淵とともに黄巾の残党の徐和を討ち、徐州刺史となる。下邳令の武周を敬い、自ら訪ねた。
- 209年: 張遼が陳蘭を討つのに合わせ、皖へ別働し、逢龍・夾石で孫権の将・韓当を破った。援軍に来た孫権軍を舒口から追い、夜通し百里余り追撃して前後から攻めた。
- 濡須口の戦い(時期は諸説): 張遼とともに先鋒を務めた。大雨で水かさが増し、張遼が撤退しようとしたとき、臧覇は「曹公は賢明な方、我らを見捨てるはずがない」と止めて駐屯した。翌日、果たして撤退の命が届き、曹操は臧覇を褒めて揚威将軍・仮節を与えた。
- 216〜217年: 孫権を討つ戦いで先陣を切り、居巣を攻め落とす。孫権が降伏を乞うと、夏侯惇らとともに居巣に留まった。
- 220年: 曹丕が魏王を継ぐと、鎮東将軍・都督青州諸軍事となる(武安郷侯)。曹丕が帝位に就くと開陽侯、のち良成侯に改封された。
- 222年: 曹休の下で、洞口で呂範を討つ。呂範軍が大風で数千人溺れた後、曹休の命で、軽船五百・決死の兵一万で徐陵を襲い、数千人を殺略したが、全琮・徐盛に撃退された。のち執金吾・特進となり、軍事の要では曹丕にたびたび相談された。
- 兵権の喪失: 『魏略』によれば、曹操の死のとき、臧覇の部下と青州兵が、天下が乱れると考えて、鳴り物を鳴らして勝手に去った。曹丕の即位後、臧覇が曹休に「万余の歩騎を借りれば江表を横行できる」と語ったため、曹丕は疑い、来朝した臧覇の兵を奪ったという。本伝には、この記載はない。
- 明帝の時代: 加増されて三千五百戸となる。没後、諡は威侯。子の臧艾が継いだ。243年、曹芳が曹操の廟庭に功臣を祀った際に、その一人となった。
主な出典
『三国志』魏書「二李臧文呂許典二龐閻伝」(臧覇伝)、裴松之注に引く『英雄記』『魏略』など。経歴は Wikipedia「臧覇」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
独立勢力から曹操に降り、義を理由に曹操の命に異を唱えたこともある経緯から、規律は中立に置いています。
父を救うために動き、のち曹操に従っては、義を重んじて亡命者の首を渡さなかった。動機は他者を思う側に寄せています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。