CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
臧洪
張超を救えなかった恨みで袁紹に背き、城を守って降らなかった義士
臧洪は、字を子源といい、徐州広陵郡の人です。広陵太守の張超に才を認められ、董卓討伐の義兵では盟約の誓詞を任されました。のち袁紹に重んじられて青州刺史、東郡太守となりますが、曹操に囲まれた張超の救援を袁紹に許されず、絶交します。袁紹の大軍に東武陽を囲まれても降らず、食糧が尽きるまで戦い、捕らえられて殺されました。経歴は『三国志』魏書などをもとにしています。
字は子源。徐州広陵郡射陽県の人で、父は臧旻。十五歳で父の功により童子郎となり、体格と容貌のすぐれた人として太学で知られた。孝廉に挙げられて郎となり、即丘県令を務めた。霊帝の末年に官を捨てて故郷へ戻り、張超に才を認められて郡の功曹となった。董卓が皇帝を殺すと、張超に決起を促して義兵を挙げさせた。酸棗の諸侯の盟では、誓詞を互いに譲り合った末に臧洪が任され、立派に務めた。のち袁紹から青州刺史に任じられ、二年のうちに盗賊を鎮め、東郡太守に移って東武陽に治所を置いた。張超が雍丘で曹操に囲まれると、救援を袁紹に願ったが許されず、雍丘は落ちて張超は自害した。臧洪は袁紹と絶交し、袁紹に東武陽を一年ほど囲まれても降らなかった。城が落ちて捕らえられ、屈しなかったために殺された。
THE WAY OF LIFE
臧洪の生き方
恩を受けた人を、見捨てられなかった。袁紹に重んじられる身でありながら、救援を許されなかったとき、その恩よりも張超との旧い縁を選んだ。
戦いの終わりは、食糧が尽きた城だった。部下は逃げられたのに、飢えながらも臧洪に従った。人を動かす言葉と、人がついていく人柄の両方を持っていた。
持ち味と、その裏側
言葉で人を動かす力と、信義を曲げない芯の強さ。酸棗の盟約の誓詞を任され、袁紹の使者・陳琳の降伏の勧めにも、書簡で堂々と拒んだ。一方で、救援を断られた恨みが取り返しのつかない決裂となり、籠城では七、八千人が命を落とした。後世には義を高く評価する声と、民を巻き込んだことを咎める声の両方がある。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜196年
徐州広陵郡射陽県の人。字は子源。父は臧旻。
- 十五歳で父・臧旻の功により童子郎となり、太学で名を知られた。体格と容貌が人並みはずれてすぐれており、孝廉に挙げられて郎となり、即丘県令に任じられた。
- 霊帝の末年に官を捨てて故郷に戻った。張超に才を認められ、広陵郡の功曹となって、太守の実務を担った。
- 董卓が皇帝を殺すと、張超に決起を促した。張超は兄の張邈と相談して義兵を挙げた。
- 酸棗で諸侯と合流した。盟約の誓詞を互いに譲り合った末、臧洪に委ねられ、立派に務めた。ただし董卓軍とは戦わないまま、兵糧が尽きて解散した。
- 張超の使者として劉虞のもとへ向かったが、河間で袁紹と公孫瓚が戦っていたため果たせず、袁紹と会って友好を結んだ。
- 青州刺史・焦和の死後、袁紹から後任を任され、二年のうちに盗賊を鎮めた。のち東郡太守に任じられ、東武陽に移った。
- 興平2年(195年)8月、張超が雍丘で曹操に囲まれた。張超は「子源は天下の義士。恩を忘れる人ではない」と、臧洪の救援を信じていた。臧洪は裸足で泣いて兵を整え、袁紹に増兵を願ったが、許されなかった。12月、雍丘は落ち、張超は自害し、一族は滅びた。
- 臧洪は袁紹と絶交した。袁紹は東武陽を囲んだが、一年ほどたっても落とせず、同郷の陳琳に降伏を勧める書状を書かせた。臧洪は長い返書で拒んだ。呂布へも援軍を求める使者を出した。
- 城の兵糧が尽き、人々は鼠を食べ、それも尽きると薄い粥を分け合った。臧洪は脱出を促したが、人々は臧洪に従い続けた。最後には愛妾を殺して兵に与え、抵抗を続けたと伝わる。
- 城が落ち、男女七、八千人が死んだ。捕らえられた臧洪は、袁紹の「まだ服さぬか」の問いに、「袁氏は漢の恩を四代受けながら、王室を助けず、張邈を兄と呼びながら、その弟の張超が殺されるのを見殺しにした」と言い放ち、屈しなかった。袁紹は臧洪を惜しんだが、使えないと見て殺した。同郷の陳容は「仁義はどこでも変わらない。私は臧洪と同じ日に死にたい。将軍と同じ日には生きたくない」と袁紹を罵り、共に殺された。居合わせた者たちは「なぜ一日に二人の烈士を殺したのか」とひそかに嘆いたという。
- 呂布への使者に出ていた司馬二人は、落城を知って敵陣に突入し、戦死したという。
- 陳寿は「雄気壮節」と評しつつ、兵が弱く敵が強かったため志を遂げられなかったことを惜しんだ。一方、後世には、城の民を巻き込んで戦い抜いたことを批判する声もある(王夫之など)。
主な出典
『三国志』魏書「呂布臧洪伝」(臧洪伝)、『後漢書』。経歴は Wikipedia「臧洪」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
恩ある人への信義を、仕えている袁紹の命令より優先して動いたことから、規律は中立に置いています。
かつて自分を認めた張超への恩と友誼を理由に、袁紹に背いたことから、動機は他者のため(義)に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。