CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
羅憲
蜀漢の巴東太守・西晋の名将
羅憲は、荊州襄陽郡の人で、若くして才学で知られ、譙周に師事しました。景耀元年(258年)、黄皓の専横に屈せず、巴東太守へ左遷されます。景耀6年(263年)、成都が陥落したのち、永安城を守って、呉の誘いを退け、二千の兵で呉の包囲に半年以上耐えました。咸熙元年(264年)7月、荊州刺史の胡烈の援軍で包囲は解けます。西晋では冠軍将軍・仮節に至り、泰始4年(268年)の華林園の宴では、陳寿や諸葛京ら蜀の人材を推薦しました。泰始6年(270年)に没し、安南将軍を追贈されています。経歴は『晋書』羅憲伝と『三国志』蜀書 霍王向張楊費伝の注をもとにしています。
荊州襄陽の人。若くして才学で知られ、譙周に師事した。景耀年間に黄皓の専横に屈せず、巴東太守へ左遷された。蜀漢が滅んだ後、呉の誘いを退け、永安城を二千の兵で守り抜いた。呉の包囲に半年以上耐え、胡烈の援軍で包囲は解けた。西晋では冠軍将軍・仮節に至り、泰始6年(270年)に没した。
THE WAY OF LIFE
羅憲の生き方
蜀漢滅亡の後、呉の盛曼らの誘いを退けて魏に従い、永安城を守った。城中に疫病が広がり、逃げるよう勧められても「主を頼みにする民を見捨てるのは君子のすることではない」と拒んだ。
晋では武陵の反乱の鎮圧や巴東の守備を担い、呉の巫城を奪取した。陳寿ら蜀の人材を朝廷に推薦したことでも知られる。
持ち味と、その裏側
不正を許さない方正さと、籠城を耐え抜く胆力。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜泰始6年(270年)
荊州襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)
- 景耀元年(258年): 黄皓の専横に屈せず、巴東太守へ左遷される。
- 景耀6年(263年): 魏軍の侵攻の中、永安城を守る。成都陥落の後、城を挙げて魏に降る。
- 咸熙元年(264年): 呉の歩協の攻撃を退ける。陸抗らの包囲に半年以上耐える。
- 同年7月: 荊州刺史胡烈の救援により、包囲が解ける。
- 泰始元年(265年): 西鄂県侯に改封。泰始3年に冠軍将軍・仮節となる。
- 泰始4年(268年): 華林園の宴で、蜀の人材(陳寿、諸葛京ら)を推薦する。
- 泰始6年(270年): 任地で没。安南将軍を追贈され、烈侯と諡された。
主な出典
『晋書』巻五十七 列伝第二十七、『三国志』蜀書 霍王向張楊費伝(裴松之注『襄陽記』を含む)。「羅憲」と「羅献」の表記の違いは、裴松之注に記されている。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。方正で厳格、士を遇することに倦まず、礼と法を重んじた。
頼ってくる民を見捨てないという義を貫いた。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。