CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
穆皇后
劉瑁の妻から劉備の皇后へ。蜀の内廷を二十余年守った皇太后
穆皇后は、姓を呉、名を莧といい、劉備の皇后となった人です。兄は蜀の将軍・呉懿で、一家は劉焉に従って益州へ移り、のちに劉焉の子・劉瑁の妻になりました。劉瑁の死後、劉備が益州を平定すると、群臣の勧めで劉備の夫人となり、漢中王后、皇后、皇太后と進みます。経歴は『三国志』蜀書 二主妃子伝などをもとにしています。
姓は呉、名は莧。兗州陳留郡の人。早く父を失ったが、父が劉焉と旧交だったことから、母や兄の呉懿らと益州へ移った。劉焉はやがて人相見から「大いに貴くなる」と告げられ、同行していた三男の劉瑁の妻に迎えた。劉瑁が早く亡くなり、呉氏は未亡人となった。建安19年(214年)、劉備が成都に入ると、群臣が呉氏を娶るよう勧めた。劉備は劉瑁と同族であることをためらったが、法正が晋の文公と子圉の例より遠い間柄だと説き、夫人に立てた。建安24年(219年)に漢中王后、章武元年(221年)に皇后、劉禅が即位した223年に皇太后となり、長楽宮に住んだ。延熙8年(245年)8月に没し、劉備の恵陵に合葬された。諡は穆。
THE WAY OF LIFE
穆皇后の生き方
益州に来たときは、兄や一族とともに劉焉に従っただけの、ひとりの娘だった。夫を亡くし、主君が代わり、住む宮が変わっても、そのたびに新しい立場を引き受けた。
劉備の皇后、劉禅の皇太后として、蜀の内廷に二十年あまり座った。目立つ政治の記事は少ないが、そのことが、宮中が荒れなかった証でもある。
持ち味と、その裏側
主君が代わっても居場所を保つ、環境への順応と落ち着き。劉備は皇后に立てる詔で「宗廟を承け、天下に母たれ」と述べた。益州出身の后が加わったことは、劉焉の旧臣たちを安んじる助けにもなったとされる。一方で、自分から動いた記事は少なく、人物像は周囲の記録を通して見えてくる。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜245年
兗州陳留郡の人。姓は呉、名は莧。兄は呉懿。
- 幼いころに父を失った。父は劉焉と旧交があり、劉焉の入蜀にあたって、母や兄の呉懿、族弟の呉班の一家とともに益州へ移った。
- 劉焉は野心を抱いており、人相見が「大いに貴くなる」と呉氏を見立てたと聞くと、同行していた三男の劉瑁の妻に迎えた。劉瑁は早く亡くなり、呉氏は未亡人となった。
- 建安19年(214年)、劉備が成都に入った。孫夫人はすでに呉へ帰っており、群臣が呉氏を娶るよう勧めた。劉備は劉瑁と同族であることをためらったが、法正が「親疏を論ずれば、晋の文公と子圉の間柄より遠いではないか」と説き、夫人に立てた。
- 建安24年(219年)、劉備が漢中王を名乗ると、漢中王后に立てられた。
- 章武元年(221年)5月、劉備が即位すると皇后に立てられた。皇后に立てる詔には「宗廟を承け、天下に母たれ」とある。
- 章武3年(223年)に劉備が没し、劉禅が即位すると皇太后となり、長楽宮に住んだ。
- 建興12年(234年)正月、劉琰の妻の胡氏が年賀のため参内した。呉氏は胡氏を一か月宮中にとどめてから帰らせた。劉琰は胡氏が劉禅と通じたのではと疑って、胡氏を殴って離縁した。胡氏が訴え出ると、劉琰は投獄され、のちに処刑された。これ以後、大臣の妻や母が参内して祝賀する儀礼は行われなくなった。
- 延熙8年(245年)8月に没し、劉備の恵陵に合葬された。小説『三国志演義』では、劉永・劉理の母という設定になっている。
主な出典
『三国志』蜀書「二主妃子伝」(先主穆皇后伝)、『華陽国志』。経歴は Wikipedia「穆皇后呉氏」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
礼と立場にそった生き方が中心で、決まりごとを重んじる人として、規律は秩序寄りに置いています。
史料に自らの意図を語る記事はほとんどなく、周囲の勧めに従って立場を移した人なので、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。