CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
盧毓
曹魏の吏部尚書・司空
盧毓は、字を子家といい、涿郡涿県の人で、後漢の名臣・盧植の四男です。十歳で父を亡くし、父の死後は兄の妻子を世話して、学行で知られました。曹丕に召され、崔琰の推挙で冀州主簿となり、曹操のもとでは、逃亡兵の妻の処刑を経書を引いて退け、刑を軽くさせたと伝わります。明帝のもとで吏部尚書となり、人材の登用を担いました。238年に司徒の空席をめぐって韓暨・崔林・常林を推挙し、曹爽の政権では選挙の職を何晏に代えられて、尚書僕射に移されます。甘露元年(256年)に司空となり、翌年に75歳で没しました。経歴は『三国志』魏書 盧毓伝をもとにしています。
涿郡涿県の人。後漢の名臣盧植の四男。父の死後は兄の妻子を世話し、学行で知られた。曹丕に召され、崔琰の推挙で冀州主簿となった。曹操のもとでは、逃亡兵の妻の処刑を経書を引いて退け、刑を軽くさせた。明帝のもとで吏部尚書となり、人材の登用を担った。司空にまで至り、甘露2年(257年)に没した。
THE WAY OF LIFE
盧毓の生き方
譙郡の民を肥沃な梁国へ移すよう上表したが、曹丕の意に反して睢陽典農校尉に左遷された。その後も安平・広平の太守として民に慕われた。
吏部尚書として選挙の基準を定め、「才能は善のために用いられるべきだ」と説いた。明帝の「名声で人を選ぶな」という詔に、行いを先にすべきだと答えた。
持ち味と、その裏側
法を情理で正す判断力、人の行いから才を見抜く目、民政の実務。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
183年〜257年(甘露2年・257年に75歳で没、諡は成侯)
涿郡涿県(現在の河北省涿州市)
- 192年: 父の盧植が没する。毓は十歳だった。
- 213年: 曹操が魏公となり、吏部郎に進む。
- 234年(青龍2年): 侍中となり、のち吏部尚書に任じられる。
- 238年: 司徒の空席をめぐり、韓暨・崔林・常林を推挙する。のちに韓暨が司徒となった。
- 239年(景初3年): 曹爽の政権で、選挙の職を何晏に代えられ、尚書僕射に移される。
- 249年: 高平陵の変の後、司隶校尉を務める。
- 256年(甘露元年)10月: 司空となる。
- 257年(甘露2年)3月: 没。75歳。諡は成侯。
主な出典
『三国志』魏書 盧毓伝(裴松之注を含む)、『三国志』三少帝紀(甘露元年・二年の記事)。「画餅充飢」の詔は本伝の引用による。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。法の運用と選挙の基準を整えることに力を注いだ。
人を用いる基準を行いに置き、才能は善のために使われるべきだとした。逃亡兵の妻の刑を軽くさせ、譙郡の民の移住を上表した点から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。