CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
留賛
髪を振り乱して天に叫び、歌ってから戦った呉の老将
留賛は、戦に臨むたびに髪を振り乱して天に叫び、声を張り上げて歌い、兵たちに唱和させてから攻めかかった呉の将です。若いころの戦傷で曲がったままの足を、自ら刀で筋を断って伸ばし、将としての道を切り開きました。東興の戦いでは前部の一人として駆けつけ、雪の中で奇襲した丁奉に続いて魏軍を大破し、73歳で戦場に散りました。経歴は『三国志』孫峻伝の注に引かれた『呉書』などをもとにしています。
会稽長山の人で、字は正明。郡の役人のとき黄巾の賊将・呉桓を自ら斬ったが、片足を傷めて伸ばせなくなった。のち自ら足の筋を断って足を伸ばし、凌統の推挙で孫権に仕えた。直言をはばからず、孫権にも一目置かれた。252年の東興の戦いで、丁奉の奇襲に続いて魏軍を大破し、左将軍となった。255年、病をおして出陣した帰路、魏の蔣班に追撃されて戦死した。
THE WAY OF LIFE
留賛の生き方
「天下は乱れ、英雄が並び立っている。このまま路地に埋もれていては、生きても死んでも同じだ」。そう言って自ら刀を取った人です。痛みより、何もできないことのほうを恐れた。
戦の前には必ず髪を振り乱して天に叫び、歌い、兵が声を合わせ終えてから攻めかかった。それは迷信ではなく、兵の心をひとつにする彼なりの作法だったのかもしれません。
持ち味と、その裏側
恐れずに先陣を切り、声と歌で兵の心をひとつにまとめる力。直言をためらわない強さもある。一方で、病を押してでも戦場に立とうとする激しさが、最後には命取りになった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
183年〜255年(享年73)
揚州会稽郡長山県の人。字は正明。
- 若いころ郡の役人となり、黄巾の賊将・呉桓と戦って自ら斬った。このとき片足を傷め、曲がったまま伸ばせなくなった。
- 兵書や史書を好み、昔の名将の戦いを読んではひとり嘆いた。「天下が乱れているのに、路地に埋もれていては生きても死んでも同じだ。足を割いて、死ななければまた用いられるだろう」と言い、親族が止めるのも聞かず、刀で自ら足の筋を断った。血があふれて長く気を失ったが、家人が足を引き伸ばし、傷が癒えるとゆっくり歩けるようになった。
- その名を聞いた凌統が会って感心し、孫権に推挙した。戦功を重ねて屯騎校尉となり、時事の得失についてたびたび直言したので、孫権も一目置いた。
- 建興元年(252年)、諸葛恪が東興に堤を築くと、魏は7万の兵で攻め寄せた。留賛は呂拠・唐咨・丁奉とともに前部として向かった。先行した丁奉が三千の兵に鎧を脱がせ、雪の中を兜と刀と盾だけで堤に斬り込むと、酒を飲みながら笑って見ていた魏の前陣は崩れた。そこへ留賛・呂拠らの軍が到着して追い討ちをかけ、魏軍を大破した。留賛はこの功で左将軍となった。
- 『呉書』は、留賛が戦に臨むたびに、必ず髪を振り乱して天に叫び、声を張り上げて歌い、左右がこれに唱和し終えてから攻めかかったと記し、「戦えば勝たないことはなかった」と伝える。
- 五鳳2年(255年)、孫峻の寿春出兵に左護軍として加わったが、途中で病が重くなり、先に引き返した。魏の蔣班が歩騎4千で追撃してきたが、留賛は陣を整えることもできなかった。負けを悟った留賛は、将軍の印綬を甥に託し、「ともに死んでも国の益にならず、敵を喜ばせるだけだ。早く行け」と逃がした。甥が拒むと、刀を抜いて追い立てたという。
- 最期に「私の戦には決まった作法があった。今こうして病に倒れたのも、天命だ」と嘆き、73歳で戦死した。呉の人々はみな、その死を惜しんだ。元の郝経は、自ら足の筋を断った留賛の勇を、関羽の骨を削る話になぞらえ「万人敵」と称えた。
主な出典
『三国志』呉書「孫峻伝」注引『呉書』、同「諸葛恪伝」。経歴は Wikipedia「留賛」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
戦の前に歌うという独自の作法を持ちながら、主君への直言や軍の務めを最後まで守ったことから、規律は中立に置いています。
立身を望んで自ら足の筋を断った一方、最期には「ともに死んでも国の益にならない」と身内を逃がしました。自分の志と国への思いが重なる人として、動機はやや利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。