CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
田疇
何度も爵位を断り、徐無山で民を守り導いた義士
田疇は、字を子泰といい、幽州右北平郡無終県の人です。初平元年(190年)、二十二歳のころ、劉虞の使者として道なき道を進んで長安に着き、騎都尉の官を与えられましたが、天子が落ち着いていないのに恩寵を受けるわけにはいかないと辞退しました。戻ると劉虞はすでに公孫瓚に殺されており、墓で返書を読み上げて泣いたと伝わります。その後、一族数百人を率いて徐無山に隠れ住み、徳を慕う人が集まって五千余家に増え、約束と法を整えて学校を設けました。建安12年(207年)の曹操の烏桓討伐では細道の案内を務めましたが、爵位は何度も辞退し、建安19年(214年)に46歳で亡くなりました。経歴は『三国志』魏書 田疇伝をもとにしています。
幽州右北平郡の人。劉虞の使者として長安へ行き、劉虞の死後は徐無山に民を率いて隠れ住んだ。曹操の烏桓討伐で道案内をしたが、爵位は何度も辞退した。214年に46歳で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
田疇の生き方
長安から戻ると、主君はもう殺されていた。田疇は、その墓の前で泣いた。義を自分の身より重く置く人物像です。
曹操に重んじられても、爵位は受けなかった。動機と信条の高さに、その姿を重ねています。
持ち味と、その裏側
道なき道を進む胆力と、人を集めて秩序ある暮らしを作る力。山中の集落で、法と教育を整えた実務の力もあった。一方で、爵位を何度も断ったため、官僚としての実績は少なく、評価が分かれる面もある人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建和3年(169年)〜建安19年(214年)
幽州右北平郡無終県の人。字は子泰(別に子春とも)。従孫に田続。
- 幽州右北平郡無終県の人で、字は子泰。読書を好み、剣術にも長けていた。
- 初平元年(190年)、二十二歳のころ、董卓が献帝を長安へ移すと、幽州牧の劉虞は、長安へ使者を送る人を求めた。周囲の推薦を受けた田疇は、劉虞に気に入られて従事に任じられた。
- 道は絶たれていたため、田疇は食客二十騎とともに、道なき道を進んで長安に着いた。騎都尉の官を与えられたが、「天子が洛陽を離れ、まだ落ち着いてもいないのに、自分が恩寵を受けるわけにはいかない」という趣旨で辞退した。三公の招きも、すべて断った。
- 田疇が戻ると、劉虞はすでに公孫瓚に殺されていた。田疇は劉虞の墓で、長安からの返書を読み上げて泣いた。公孫瓚は怒って懸賞をかけたが、捕らえられた田疇が毅然と言葉を返したため、殺されず、のち知人の取りなしで釈放されたと伝わる。
- その後、田疇は一族数百人を率いて、徐無山に隠れ住んだ。徳を慕う人が集まり、数年で五千余家に増えたと伝わる。指導者に推されると、約束と法を整え、学校を設けた。道に落ちた物を拾う者がいなくなった、とも伝わる。烏桓・鮮卑は贈り物を届け、田疇はこれを慰撫して、侵略しないよう命じた。
- 袁紹は将軍の印綬を送って招いたが、田疇は拒んだ。袁紹の死後、袁尚が招いても応じなかった。
- 建安12年(207年)、曹操が烏桓の討伐に向かった際、田疇を招いた。田疇は応じ、曹操は司空戸曹掾に任じようとしたが、のち取り消して茂才に推挙し、蓨県の令を遥任させた。海沿いの道が洪水で通れなくなると、田疇は、柳城へ通じる細道の案内を申し出た。曹操は退くと見せかけて、細道から奇襲し、大勝した。
- この功で亭侯に封じられそうになったが、田疇は初志に反するとして固辞した。役人は罷免と処罰を求めたが、曹操は問題にしなかった。
- その後、田疇は家族とともに鄴へ移った。かつて自分を招いた袁尚の首が、公孫康から届くと、曹操の禁令を破って遺体を引き取り、泣いて弔った。死罪にも当たる行いだったが、曹操はその礼を評価して不問にした。裴松之は注で、袁尚の捕殺に田疇の助力があったことを挙げて、この哭礼を偽善だと批判している。
- 荊州の征討のあと、曹操は田疇の功に報いていなかったことを悔やんで、侯に取り立てようとした。曹丕・荀彧・鍾繇は、本人の意思を尊重するよう述べた。曹操は友人の夏侯惇を通じて説得させたが、田疇は涙を流して、徐無山の人々を売って爵位に替えることはできないと拒んだ。曹操は侯への取り立てを断念し、議郎に任じた。
- 建安19年(214年)に、四十六歳で亡くなった。子は早世していた。曹丕が即位すると、田疇の徳義を評価して、従孫の田続を関内侯に封じ、家を継がせた。この田続は、のち蜀の平定のあと、衛瓘の命で鄧艾父子を殺した人物とされる。
主な出典
『三国志』魏書 田疇伝(巻11、裴松之注に引く『先賢行状』などを含む)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
集落で法や学校を整えた記録から、規律は秩序寄りとしています。
褒賞を断り続け、徐無山の人々を最後まで優先した記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。