CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王脩
旧主の亡骸を葬ることを願い、曹操を感心させた人
王脩は、字を叔治といい、北海郡営陵県の人です。孔融に招かれて高密の県を預かり、孔融が賊に脅かされたときは、夜のうちに馬で駆けつけて助けました。のち袁譚に仕え、建安10年(205年)に曹操が南皮の袁譚を攻めると、援軍に駆けつけましたが、すでに袁譚は殺されていました。王脩は曹操に、かつての主君を葬ることを願い出て、報いられれば死罪になっても悔いはないと述べたと伝わり、曹操は感心して許し、取り立てます。魏郡太守・大司農・奉常を務め、許で耿紀らが反乱を起こしたときは、役所を離れて徒歩で宮門へ駆けつけ、危機にある人を助ける義は慣例に勝ると答えました。経歴は『三国志』魏書 王脩伝をもとにしています。
北海郡営陵の人。孔融に仕えて高密・膠東を治め、のち袁譚に仕えた。袁譚が曹操に討たれると、処罰を覚悟で亡骸を葬りたいと願い出て、許されて曹操に仕えた。魏の郡太守・大司農・奉常を務めた。
THE WAY OF LIFE
王脩の生き方
旧主のために、自分の処罰を恐れず願い出た。王脩は、義を自分の身より重く置く人物像です。
孔融の危機にも、夜に駆けつけた。動機と信条の高さに、その姿を重ねています。
持ち味と、その裏側
義を貫く姿勢と、人を見捨てない行動力。賊を討つ場面では、厳しい処断もできる実務の力もあった。一方で、人のための行動が先に立ち、自ら大きな構想を描く場面は少ない人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳(173年より前)〜没年未詳(216年以降)
北海郡営陵県の人。字は叔治。子に王忠。
- 北海郡営陵県の人で、字は叔治。若いころに母を亡くした。十九歳で遊学に出たのち、孔融に招かれて、高密の県を預かった。
- 高密では、罪人をかくまった家を連帯で責める制度を作った。孔融は王脩を孝廉に推したが、王脩は、その枠を邴原に譲ろうと何度も試みたという。
- 孔融が賊に脅かされたとき、王脩は夜のうちに馬で駆けつけて助けた。孔融はこれを喜び、王脩を膠東の令に任じた。王脩は、賊の頭の公沙盧とその兄弟を討ち、賊は減ったという。
- 建安元年(196年)、袁紹が孔融を追い出したあと、王脩は袁譚に仕えた。建安7年(202年)、袁紹の死後に袁尚が袁譚を破ると、王脩は官吏や徴発した兵を率いて袁譚を助けに行った。袁譚には、袁尚と和解するよう勧めたが、受け入れられなかった。
- 建安10年(205年)、曹操が南皮の袁譚を攻めたとき、王脩は楽安で兵糧の輸送を監督していた。援軍に駆けつけたが、すでに袁譚は殺されていた。王脩は曹操に、袁譚を葬ることを願い出た。かつての主君に報いられれば、そのあとで死罪になっても悔いはない、と述べたと伝わる。曹操は感心して許し、王脩を取り立てた。
- 曹操は、楽安の守将だった管統の首を持ってくるよう王脩に命じた。しかし王脩は、管統の縄を解き、生かして連れてきた。曹操は、これを罪に問わなかった。
- のち、司空の府で金や銀の管理にあたり、建安17年(212年)に魏郡太守となった。魏国が立つと、大司農、さらに奉常となった(大司農への任命には異説がある)。体罰を戒める意見も述べた。
- 許で耿紀らが反乱を起こしたとき、王脩は、役所を離れて徒歩で宮門へ駆けつけた。鍾繇は、持ち場を離れたことを咎めたが、王脩は、危機にある人を助ける義は、慣例に勝ると答えた。王脩はそれからまもなく亡くなった。
主な出典
『三国志』魏書 王脩伝(巻11、裴松之注を含む)、『後漢書』、『資治通鑑』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼と義に従って動く人で、規律は秩序寄りとしています。
旧主への義と、危機にある人を助けようとする行動の記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。