CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王烈
恥じる心を信じて、布を贈った徳の人
王烈は、字を彦方といい、管寧・邴原とともに遼東へ避難した名士です。陳寿は、当時の名声が邴原・管寧の上にあったと記しています。公孫度の長史の招きは辞退し、曹操の招きには、赴任する前に亡くなりました。牛泥棒に布を贈った話は、裴松之注が引く『先賢行状』に載る逸話で、史実として確かめることはできないため、本文とは分けて扱います。
字は彦方。管寧・邴原とともに遼東へ避難し、公孫度の長史を辞退した名士。没年は218年または219年、享年は78歳。
THE WAY OF LIFE
王烈の生き方
乱世の遼東で、王烈は官に就く道を選ばず、農具を手に粗末な衣で暮らしたと伝わります。人々は争いごとを裁いてもらおうと王烈のもとへ向かいながら、途中で自分の非に気づいて引き返したとも語られます。
牛泥棒に、罰ではなく一端の布を贈った話は、『先賢行状』にある逸話です。伝記は、悪を恥じる心があるなら善心が芽生える、という王烈の考えを記します。
持ち味と、その裏側
人の過ちより、改めようとする心を見ようとしたこと。教える、分け与えるといった静かな働きかけで人を動かしたこと。一方で、長史の辞退に商人となって名を汚してまで距離を置いたことは、公の場で力を振るう機会を自分から手放すことでもあったと考えられます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年141年または142年頃(推算)〜218年または219年(享年78歳)
字は彦方。『後漢書』は太原の人、『三国志』は「平原の王烈」と記す。
- 出身は、『後漢書』が太原、『三国志』が「平原の王烈」と記す。二つの地名の関係を確定できる史料は確認できない。
- 潁川の陳寔を師とし、その二人の息子とも親しく交わった。荀爽・賈彪・李膺らも、陳寔のもとで王烈の器量を認めたと伝わる(裴注『先賢行状』)。
- 父の死に三年の喪に服し、飢饉の際には蓄えを分け与え、学校を設けて人々の教育に努めたと記される(裴注『先賢行状』)。
- 天下の乱を避け、管寧・邴原らとともに公孫度の支配する遼東へ渡った(本文)。渡航の年は不明。『先賢行状』は董卓の乱、『後漢書』は黄巾・董卓の乱を契機に挙げる。
- 公孫度は兄弟に対するような礼で王烈を迎え、州の政事を相談し、長史に任じようとした(『後漢書』)。
- 王烈は公孫度の長史を辞退し、商人となって自ら名を汚した(本文「商賈自穢」)。長史に就いた記録はない。商人を個人的に嫌ったとまでは断定できない。
- 遼東では自ら農具を取り、粗末な衣服と質素な食事で暮らした。強者が弱者を圧する風が収まり、市場の値の使い分けもなくなったと称えられる(裴注『先賢行状』)。徳を讃える伝記的な表現でもある。
- 牛泥棒の逸話:盗みが見つかった者が、過ちを認めて王烈にだけは知らせないでほしいと頼んだ。王烈は叱る代わりに一端の布を贈った。のちにその男は、重い荷を運ぶ老人を助け、老人が道に落とした剣を、持ち主が戻るまで守ったという。老人から話を聞いた王烈は、男が元の泥棒だと知って喜び、人々に顕彰させた(裴注『先賢行状』『後漢書』)。
- 『先賢行状』は王烈の考えを「悪を恥じれば善心が生まれる。だから布を与え、善を励ました」と記す。ただし会話の細部や、泥棒が必ず更生したという因果は、他の史料で確かめることができない。
- 裁きを求めて王烈のもとへ向かった人々が、途中で自分の非を悟り、争いをやめて帰ったという話もある(裴注『先賢行状』)。
- 陳寿は、当時の王烈の名声が邴原・管寧の上にあったと記す(本文)。三人の徳や能力を客観的に順位づけたものとは読まない。
- 建安15年(210年)、新設の徴事二名に、邴原と王烈がともに選ばれたという(邴原伝裴注『献帝起居注』)。本文は、王烈が曹操の招きを受けながら赴任前に没したとするため、二人が同僚として働いたとは言えない。
- 没年は、『先賢行状』が建安23年(218年)、『後漢書』が建安24年(219年)。どちらも享年78歳とする。本文は「海表で没した」と記す。病名、臨終の言葉、埋葬地は不明。
- 注意:葛洪『神仙伝』の「王烈(字は長休、邯鄲の人)」は、長寿や仙術で知られる別人。字も出身地も異なるため、混同しない。
主な出典
『三国志』魏書 巻11 管寧伝(裴注『先賢行状』)、巻11 邴原伝(裴注『献帝起居注』)、『後漢書』巻81 独行列伝。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
学校を設けて人を教え、徳によって地域の風俗を整えようとしたと伝わる姿から、規律は秩序寄りに置いています。
牛泥棒に布を贈った話、飢饉で蓄えを分けた話、学校を設けて人々を教えた話はいずれも裴注『先賢行状』による伝記の記述です。史実として確かめられるわけではありませんが、他者を善に導こうとした人物像として重く見て、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。