CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王栄
霊帝の寵愛を受け、のちの献帝・劉協を産んで毒殺された貴人
王栄は、趙国邯鄲県の人で、五官中郎将・王苞の孫娘です。良家の子女として後宮に選ばれ、貴人となり、霊帝の寵愛を受けて身ごもりました。気性の強い皇后・何氏を恐れて堕胎薬を飲みますが、胎は動かず、太陽を背負って歩く夢を見てからは、産む決心をします。181年に劉協(後の献帝)を産み、数日後に亡くなりました。何皇后に毒殺されたと伝わります。のち献帝は母を霊懐皇后と追尊し、文昭陵に改葬しました。経歴は『後漢書』皇后紀などをもとにしています。
趙国邯鄲県の人。祖父は五官中郎将の王苞、父は王章、兄は王斌。体つきは豊満で、容貌は美しく、聡明で書写と算数に通じていた。良家の子女として後宮に選ばれ、貴人となった。180年夏、霊帝の寵愛を受けて身ごもった。皇后の何氏は気性が強く嫉妬深く、後宮の誰もが恐れていたため、王栄は薬を飲んで胎児を堕とそうとしたが、胎は動かなかった。たびたび太陽を背負って歩く夢を見たことで、堕胎の考えを二度と持たなかった。181年3月1日、劉協(後の献帝)を産み、3月8日(4月9日)に亡くなった。何皇后に毒殺されたと伝わり、『続漢書』は、喉が渇いて粥を飲んで死んだと記す。189年、劉協が献帝となり、194年、王栄は霊懐皇后と追尊されて、文昭陵に改葬された。
THE WAY OF LIFE
王栄の生き方
堕胎薬を飲んだあと、太陽を背負って歩く夢をたびたび見て、堕胎の考えを二度と持たなかった。霊帝は後に、この子が幼くして母を失ったことを哀れみ、王栄を偲んで『追徳賦』と『令儀頌』を作った。
死後、何皇后を恨んだ霊帝は、皇后を廃そうとしたが、宦官たちが強く諫めて思いとどまった。劉協は掖庭に戻され、暴室嗇夫の朱直に養われ、一年余り後に董太后が自ら養った。
持ち味と、その裏側
聡明さと、書と算数の才。『続漢書』は「才明で聡敏、書を能くし会計ができた」と記す。史料は後宮での短い生涯を記すのみで、本人の言葉は残らず、人物像は、子の劉協(献帝)の運命を通して語られる。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜181年(光和4年3月)
趙国邯鄲県の人。祖父は王苞、父は王章、兄は王斌。
- 生年不詳: 趙国邯鄲県に生まれる。五官中郎将の王苞の孫娘で、父の王章は貧しく仕官しなかった。
- 良家の子女として後宮に選ばれ、貴人となる。
- 180年夏: 霊帝の寵愛を受けて身ごもる。皇后の何氏を恐れて堕胎薬を飲んだが、胎は動かなかった。たびたび太陽を背負って歩く夢を見て、堕胎を二度と考えなかった。
- 181年3月1日: 劉協(後の献帝)を産む。
- 181年3月8日(4月9日): 何皇后に毒殺された。『続漢書』は、喉が渇いて粥を飲んで死んだと記し、『漢献帝春秋』は、劉協が生まれて十数日後に、何皇后が嫉妬から殺したと記す。霊帝は激怒して何皇后を廃そうとしたが、宦官たちに諫められて思いとどまった。
- 181年〜: 劉協は暴室嗇夫の朱直に養われ、一年余り後に董太后が自ら養った。3歳のとき、霊帝は、幼くして母を失ったことを哀れみ、王栄を偲んで『追徳賦』と『令儀頌』を作った。
- 189年: 劉協が帝位に就く(献帝)。のち献帝は王栄の兄の王斌を探し出し、屋敷と田畑を与えて奉車都尉に任じた。
- 194年: 献帝は王栄を霊懐皇后と追尊し、文昭陵に改葬した。
主な出典
『後漢書』皇后紀下、孝霊帝紀、孝献帝紀、『後漢紀』巻二十七、『続漢書』。経歴は Wikipedia「王栄」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
後宮の定めと皇后の権勢の中で動いた立場から、規律は中立に置いています。
皇后を恐れて堕胎を試みた点から、自分の身を守る動機が目立つが、それ以上の主体的な行動は記録されないため、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。