CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王朗
孫策に敗れ、曹操に招かれ、三代の魏帝に諫言した礼法の学者
王朗は、字を景興といい、徐州東海郡の人です。陶謙に推挙されて会稽太守となりますが、孫策に敗れて降伏します。のち曹操に招かれて都へ上り、魏では大理、司空、司徒を歴任しました。疑わしい罪は軽くする寛容な法官で、曹丕と曹叡にも諫言を重ねた学者です。228年に亡くなりました。『三国志演義』では諸葛亮に論破されて憤死しますが、史書にその記述はありません。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は景興。徐州東海郡郯県の人。経書に通じ、郎中を経て甾丘県長となった。師の楊賜の死に際して官を棄てて喪に服し、のち陶謙に茂才として推挙されて治中となった。陶謙に長安の献帝へ使者を送るよう勧め、その忠誠を賞されて、193年に会稽太守となった。196年、劉繇を破った孫策が会稽に進むと固陵で防いだが、査瀆で大敗し、東冶へ逃れたが追われてまた敗れ、孫策に降った。198年、曹操に召し出され、数年かけて都へ着き、諫議大夫・参司空軍事となった。魏国が成立すると丞相参軍祭酒、魏郡太守を兼ね、少府・奉常・大理を歴任した。曹丕が即位すると御史大夫、のち司空となり、曹叡の代には司徒となった。228年に没し、諡は成侯。
THE WAY OF LIFE
王朗の生き方
会稽では、秦の始皇帝を祭る古い風習を、徳のない君主だとして廃止させた。四年の在任中、民を慈しんだと伝わる。友人の許靖が身を寄せてくると、これを庇った。
孫策に敗れたあとも、一族を抱えて困窮しながら、旧友や親族を助け、分けるのは多く、受け取るのは少なくしたと伝わる。降伏すると、孫策は儒者としての教養を認めて詰問するだけで害さず、張昭を遣わして仕えるよう勧めたが、王朗はこれを固辞した。
持ち味と、その裏側
礼法と経書の学。大理としては疑わしい罪を軽くして、鍾繇と並んで称えられた。かつての友・劉陽が曹操を除こうとして死んだあと、遺族を匿い、帰朝してから曹操を何度も説いて赦免を得たという。曹丕の狩猟を諫め、夷陵や呉征伐でも慎重な意見を述べ、曹叡には労役の軽減を願った。陳寿は「文は博く富み、一時の俊傑」と評し、曹丕は「一代の偉人」と称えた。一方、『世説新語』には、助けた男を見捨てようとして華歆に諫められた逸話があり、世間では華歆に劣ると見られたという。諸葛亮は『正議』で、王朗ら魏の高官の降伏勧告に反論している。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜228年
徐州東海郡郯県の人。字は景興。子は王粛、孫女は司馬昭の妻となった王元姫。
- 185年: 師の楊賜が亡くなると、官を棄てて喪に服した。孝廉に挙げられても出仕せず、のち陶謙に茂才として推挙されて治中となる。
- 193年: 陶謙に、長安の献帝へ使者を送るよう勧める。その忠誠が賞されて、会稽太守に任じられた。
- 会稽太守の頃: 秦の始皇帝を、夏禹と同じ廟で祭る古い風習を、徳のない君主を祭るべきでないとして廃止させる。四年の在任で民に慕われた。許靖を庇護した。
- 196年: 孫策が会稽に攻めこむ。功曹の虞翻が避けるよう勧めたが、「自分は漢の官吏であり、城を守るべきだ」として固陵で防ぐ。孫静の策で査瀆から背後を突かれて大敗し、東冶へ海を渡って逃れたが追われ、孫策に降った。
- 198年: 曹操に召されたが、道が通じず数年かけて都に着き、諫議大夫・参司空軍事となる。
- 213年: 魏国の成立で軍祭酒となり、魏郡太守を兼ねる。のち少府・奉常・大理を歴任し、疑わしい罪を軽くしたことで称えられた。
- 220年: 曹操の死後、御史大夫となり、安陵亭侯に封じられる。曹丕に刑罰を軽くするよう進言した。同年、御史大夫は司空に改められ、楽平郷侯となる。
- 221年: 夷陵の戦いで、孫権を支援して蜀を併呑すべきとの意見に、両軍が持久戦になるまで待つべきだとして反対し、曹丕は従った。
- 222年: 呉征伐に出ようとする曹丕に、孫登がまだ来ていないことなどを理由に反対し、辺境の守りを固めるよう進言した。
- 223年: 楊彪を推挙し、病と称して地位を譲ろうとしたが、曹丕は許さなかった。
- 226年: 曹叡の即位で蘭陵侯となる。労役と出費の軽減を願い、司徒に転じた。後継ぎのいない曹叡を案じる上奏もした。
- 228年: 没した。諡は成侯。243年に曹操の廟庭に祀られ、246年には『易伝』が官吏登用の試験科目に採用された。
主な出典
『三国志』魏書「鍾繇華歆王朗伝」(王朗伝)、裴松之注、『世説新語』。経歴は Wikipedia「王朗 (曹魏)」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼法を重んじ、法を寛容に運用する官僚として、魏の制度の中で重きをなしたことから、規律は秩序に置いています。
民を慈しみ、友人を庇い、法を寛容に扱ったことから、動機は中立よりやや利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。