三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

王朗

孫策に敗れ、曹操に招かれ、三代の魏帝に諫言した礼法の学者

王朗は、字を景興といい、徐州東海郡の人です。陶謙に推挙されて会稽太守となりますが、孫策に敗れて降伏します。のち曹操に招かれて都へ上り、魏では大理、司空、司徒を歴任しました。疑わしい罪は軽くする寛容な法官で、曹丕と曹叡にも諫言を重ねた学者です。228年に亡くなりました。『三国志演義』では諸葛亮に論破されて憤死しますが、史書にその記述はありません。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。

字は景興。徐州東海郡郯県の人。経書に通じ、郎中を経て甾丘県長となった。師の楊賜の死に際して官を棄てて喪に服し、のち陶謙に茂才として推挙されて治中となった。陶謙に長安の献帝へ使者を送るよう勧め、その忠誠を賞されて、193年に会稽太守となった。196年、劉繇を破った孫策が会稽に進むと固陵で防いだが、査瀆で大敗し、東冶へ逃れたが追われてまた敗れ、孫策に降った。198年、曹操に召し出され、数年かけて都へ着き、諫議大夫・参司空軍事となった。魏国が成立すると丞相参軍祭酒、魏郡太守を兼ね、少府・奉常・大理を歴任した。曹丕が即位すると御史大夫、のち司空となり、曹叡の代には司徒となった。228年に没し、諡は成侯。

THE WAY OF LIFE

王朗の生き方

会稽では、秦の始皇帝を祭る古い風習を、徳のない君主だとして廃止させた。四年の在任中、民を慈しんだと伝わる。友人の許靖が身を寄せてくると、これを庇った。

孫策に敗れたあとも、一族を抱えて困窮しながら、旧友や親族を助け、分けるのは多く、受け取るのは少なくしたと伝わる。降伏すると、孫策は儒者としての教養を認めて詰問するだけで害さず、張昭を遣わして仕えるよう勧めたが、王朗はこれを固辞した。

持ち味と、その裏側

礼法と経書の学。大理としては疑わしい罪を軽くして、鍾繇と並んで称えられた。かつての友・劉陽が曹操を除こうとして死んだあと、遺族を匿い、帰朝してから曹操を何度も説いて赦免を得たという。曹丕の狩猟を諫め、夷陵や呉征伐でも慎重な意見を述べ、曹叡には労役の軽減を願った。陳寿は「文は博く富み、一時の俊傑」と評し、曹丕は「一代の偉人」と称えた。一方、『世説新語』には、助けた男を見捨てようとして華歆に諫められた逸話があり、世間では華歆に劣ると見られたという。諸葛亮は『正議』で、王朗ら魏の高官の降伏勧告に反論している。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生年不詳〜228年

徐州東海郡郯県の人。字は景興。子は王粛、孫女は司馬昭の妻となった王元姫。

  1. 185年: 師の楊賜が亡くなると、官を棄てて喪に服した。孝廉に挙げられても出仕せず、のち陶謙に茂才として推挙されて治中となる。
  2. 193年: 陶謙に、長安の献帝へ使者を送るよう勧める。その忠誠が賞されて、会稽太守に任じられた。
  3. 会稽太守の頃: 秦の始皇帝を、夏禹と同じ廟で祭る古い風習を、徳のない君主を祭るべきでないとして廃止させる。四年の在任で民に慕われた。許靖を庇護した。
  4. 196年: 孫策が会稽に攻めこむ。功曹の虞翻が避けるよう勧めたが、「自分は漢の官吏であり、城を守るべきだ」として固陵で防ぐ。孫静の策で査瀆から背後を突かれて大敗し、東冶へ海を渡って逃れたが追われ、孫策に降った。
  5. 198年: 曹操に召されたが、道が通じず数年かけて都に着き、諫議大夫・参司空軍事となる。
  6. 213年: 魏国の成立で軍祭酒となり、魏郡太守を兼ねる。のち少府・奉常・大理を歴任し、疑わしい罪を軽くしたことで称えられた。
  7. 220年: 曹操の死後、御史大夫となり、安陵亭侯に封じられる。曹丕に刑罰を軽くするよう進言した。同年、御史大夫は司空に改められ、楽平郷侯となる。
  8. 221年: 夷陵の戦いで、孫権を支援して蜀を併呑すべきとの意見に、両軍が持久戦になるまで待つべきだとして反対し、曹丕は従った。
  9. 222年: 呉征伐に出ようとする曹丕に、孫登がまだ来ていないことなどを理由に反対し、辺境の守りを固めるよう進言した。
  10. 223年: 楊彪を推挙し、病と称して地位を譲ろうとしたが、曹丕は許さなかった。
  11. 226年: 曹叡の即位で蘭陵侯となる。労役と出費の軽減を願い、司徒に転じた。後継ぎのいない曹叡を案じる上奏もした。
  12. 228年: 没した。諡は成侯。243年に曹操の廟庭に祀られ、246年には『易伝』が官吏登用の試験科目に採用された。

主な出典
『三国志』魏書「鍾繇華歆王朗伝」(王朗伝)、裴松之注、『世説新語』。経歴は Wikipedia「王朗 (曹魏)」の記述も参照しています。

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:秩序・善

礼法を重んじ、法を寛容に運用する官僚として、魏の制度の中で重きをなしたことから、規律は秩序に置いています。

民を慈しみ、友人を庇い、法を寛容に扱ったことから、動機は中立よりやや利他寄りに置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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