CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王昶
呉の城下に伏兵を仕掛けて勝ち、子や甥に名と戒めの書を残した魏の将
王昶は、字を文舒といい、太原郡晋陽県の人で、同郡の王凌と並んで知られました。曹丕の太子文学を経て、洛陽典農として荒地を切り開き、青龍年間には『治論』20余篇と『兵書』10余篇を奏上します。正始年間に征南将軍となり、治所を新野へ移して、荊・豫の2州で水軍を鍛え、農を広げて穀物を蓄えさせました。嘉平元年(249年)には、学問を重んじることや考課の制度を設けることなど5事を上奏し、嘉平2年(250年)に呉の江陵方面へ進軍して、積み重ねた弩を一斉に発射させ、呉軍を破ります。子や甥に戒めの書を送ったことでも知られ、甘露4年(259年)に亡くなりました。経歴は『三国志』魏書 王昶伝をもとにしています。
字は文舒。太原郡晋陽県の人。曹丕の太子文学から出て、洛陽典農として荒地を開き、『治論』『兵書』を著した。正始年間は征南将軍として新野へ治所を移して水軍と農を整え、嘉平2年(250年)、江陵で偽の撤退で施績を誘い出して破った。子や甥に『謙実』の名を与え、戒めの書を送った。
THE WAY OF LIFE
王昶の生き方
子と甥に『処静』『玄冲』などの名をつけ、戒めの書を書き送った。名前そのものに言い聞かせを込める、教育熱心な人です。
呉との戦いでは、撤退を偽って敵をおびき出し、伏兵で叩いた。構想は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
制度と戦を一つの絵として考える構想力。『治論』『兵書』、新野への治所移転、考課の法の提案など、書いて示せる計画性。江陵で偽の撤退と伏兵を組み合わせた戦術眼。子や甥へ言葉を尽くして教える慎重さ。一方で、東興の戦いで他方面の敗北に引きずられて撤退するなど、全体の流れに左右される場面もあった。挑戦は、大胆な賭けより周到な準備が目立つため中程度に置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜甘露4年(259年)
太原郡晋陽県の人。字は文舒。父は王沢。同郡の王凌と並んで知られた。子に王渾(嗣)・王深・王湛・王沦。甥に王默・王沈。京陵侯、諡は穆侯。
- 太原郡晋陽の人で、字は文舒。若いころ同郡の王凌と並んで名を知られた。王凌が年長だったため、昶は兄のように仕えた。
- 曹丕が太子だったとき太子文学となり、中庶子に進んだ。曹丕が即位すると散騎侍郎、洛陽典農となった。当時の都畿は木が茂って林のようだったが、昶は荒地を切り開き、自ら民を励ました。その結果、開墾した田は特に多かった。兗州刺史となった。
- 曹叡の代に揚烈将軍、関内侯となった。昶は地方にいても朝廷を気にかけ、「魏は秦・漢の弊を受け、法制が苛酷で細かすぎる。国の定めを大きく改めて先王の風に近づけなければ、教化の復興は望めない」と考えた。そこで古の制度のうち当世に合うものを選んで『治論』20余篇を、また奇正の用を説いた『兵書』10余篇を書き、青龍年間に奏上した。
- 青龍4年(236年)、曹叡は「才智と文章があり、謀慮が深く、遠くを近くのように見通し、志が公にある者」を、卿・校以上の者がそれぞれ1人ずつ推挙せよと詔した。太尉の司馬懿が昶を推した。
- 正始年間、徐州に転じ、武観亭侯となって、征南将軍、仮節、荊・豫の諸軍事を都督した。昶は「国に常の兵はあっても、戦に常の勝ちはない。地に常の険はあっても、守りに常の形勢はない」と考えた。宛に駐屯していたが、襄陽まで300余里あり、諸軍は分散し、船は宣池にあって、急に駆けつけられない。そこで治所を新野へ移し、荊・豫の2州で水軍を鍛え、農を広げて穀物を蓄えさせた。
- 嘉平元年(249年)、司馬懿が高平陵の変で曹爽を倒し、大臣に政治の得失を問うた。昶は5事を陳べた。学問を重んじて浮華を抑え学校を立てること、考課の制度を設けること、官吏の在任を長くして功のある者を昇進させること、官の収入を減らして民と利を争わせないこと、奢侈を改めて倹約を勧めることである。詔でこれを褒められ、百官の考課の法を作るよう命じられた。
- 昶は「唐・虞にも黜陟の文はあったが、考課の法は伝わらなかった。周の制度でも冢宰が群吏を評して賞罰したが、比べる基準がなかった。賢人を任じ、その長に任せて統べさせれば、能否は自然にわかる」と述べた。
- 嘉平2年(250年)、昶は「孫権は良臣を追放し、嫡庶が争っている。白帝・夷陵の間の黔・巫・秭帰・房陵は江北にあり、新城郡と接している。襲えば取れる」と上奏した。新城太守の州泰が巫・秭帰・房陵を襲い、荊州刺史の王基が夷陵に向かい、昶が江陵に向かった。
- 魏軍は両岸に竹を引いて橋を架け、水を渡って攻めた。呉の兵は南岸へ逃げ、7本の道を切り開いて反撃した。昶は積み重ねた弩を一斉に発射させ、呉の大将施績は夜のうちに江陵城に逃げ込んだ。数百を追って斬った。
- 昶はさらに、敵を平地に引き出して決戦しようと考えた。まず五軍を大道に沿って先に撤退させて呉に見せ、安心させた。次に、奪った鎧や馬、首級を持った兵に城の周りを走らせ、呉を怒らせた。伏兵を置いて待つと、施績は果たして追撃し、昶は決戦して勝った。呉の将の鍾離茂と許旻を斬り、鎧・旗・太鼓・宝物・武器を数え切れないほど獲て、軍を整えて帰った。王基・州泰も功を立て、昶は征南大将軍、儀同三司、京陵侯に進んだ。
- 嘉平4年(252年)11月、昶は胡遵・毌丘倹・諸葛誕とともに呉を討った。昶は南郡、毌丘倹は武昌、胡遵と諸葛誕は東興を攻めた。12月に東興の軍が大敗し、昶と毌丘倹も翌年正月に屯営を焼いて撤退した。
- 昶は子や甥の名を、すべて謙虚さと誠実さに基づいてつけた。甥の王默は字を処静、王沈は処道、子の王渾は字を玄冲、王深は字を道冲という。そして書を与えて戒めた。「夫れ物は速く成れば則ち疾く亡び、晩く就れば則ち善く終わる」と述べ、浮華や党派を戒め、孝敬と仁義を根本とし、進むだけでなく退くことと足るを知ることを説いた。
- 戒めの書には、困っている人に施し、郷里や朝廷に出入りするときは老人を慰問し、人を貶めず、官にあっては忠を尽くし、交友は誠実であれ、貧賤のときに自暴自棄にならず、事を行うには三思せよ、という言葉も含まれる。王昶の文集5巻は失われ、『治論』『兵書』『考課疏』『家戒』などの一部が『全三国文』に残る。
- 兗州刺史のころ、昶は阮籍を招いて会ったが、阮籍は終日一言も発しなかったという。また、匈奴の劉渊が7歳で母を亡くして大いに悲しんだと聞いて、昶は感心して弔問の使いを送ったと伝わる。
- 正元2年(255年)、毌丘倹と文欽が反乱を起こすと、昶は兵を率いて防いで功があり、2人の子が亭侯・関内侯となり、昶は驃騎将軍に進んだ。
- 甘露2年(257年)、諸葛誕が寿春で反乱を起こし、呉に降った。昶は夾石に拠って江陵に迫り、施績・全熙を牽制して、東へ向かわせなかった。諸葛誕が討たれた後、詔で「昔、孫臏は趙を助けて大梁を衝いた。西の兵が迅速に進んだことも東征の勢いを成した」と称えられ、邑千戸を加えられて合計4700戸、司空となった。
- 甘露4年(259年)6月、没した。諡は穆侯。子の王渾が継いだ。杜恕は韓観とともに昶を『兼才』と評し、陳寿は『開済識度(世を開き済う識見と度量)』と評した。近代の劉咸炘は「徐邈は通介で俗に随わず、王昶は畏慎で禍を免れようとした」と並べて論じた。『演義』では、東興の敗戦の後に撤退する場面で一度名が出るのみである。
主な出典
『三国志』魏書 王昶伝(百度百科が引く本文)、『晋書』、『戒子書』(群書治要)、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法制と考課を重んじ、子や甥にも節度を求めた行動から、規律は最高に置いています。
民の開墾や官吏の考課を説き、子や甥を戒めた行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。