CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王基
曹爽を批判し、荊州では呉の誘いを見抜き、功を部下に譲った魏の学者将軍
王基は、字を伯輿といい、青州東萊郡曲城県の人です。幼くして父を失い、叔父に育てられ、鄭玄に学びました。曹爽の時代に『時要論』を著して政権の腐敗を批判し、嘉平2年(250年)に荊州刺史となって、夷陵で歩協の軍を攻め、雄父の兵糧庫を襲って30万石を奪います。正元2年(255年)の毌丘倹・文欽の乱では、慎重論の命令に背いて、兵糧のある南頓を先に押さえました。甘露2年(257年)の諸葛誕の乱では、寿春の包囲を守り通し、陥落後に深く呉へ攻め入ろうとする司馬昭に反対して止めます。昇進を辞退して功を部下に譲り、景元2年(261年)に没しました。経歴は『三国志』魏書 王基伝をもとにしています。
字は伯輿。青州東萊郡曲城県の人。鄭玄に学び、曹爽の下で『時要論』を著して専横を批判した。のち荊州刺史となり、毌丘倹・文欽の乱では先に南頓を押さえ、諸葛誕の乱では寿春の包囲を守り通した。呉の偽りの降伏を見抜き、261年に没した。
THE WAY OF LIFE
王基の生き方
曹爽に仕えながら『時要論』で批判を書いた。若いころは叔父に育てられ、孝行で知られ、鄭玄の学を守った学者です。
諸葛誕の乱では、功を部下に譲り、功績を上げた部下7人が侯となった。慎重で、前線でも功に走らない人物像です。
持ち味と、その裏側
曹爽の専横を『時要論』で批判した気骨と、荊州・寿春・南頓で、先に要地を押さえる判断の確かさ。呉の投降を罠と見抜き、遠征に反対した慎重さ。功を部下に譲る姿勢。一方で、曹爽の部下だった経歴から一時は免職され、また、ときに命令を越えて動く強さもあった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
初平元年(190年)ごろ〜景元2年(261年)
青州東萊郡曲城県の人。字は伯輿。叔父の王翁に育てられた。従弟に王僑。子に王徽(早世)。娘の王粲は司馬栄に嫁いだ。
- 青州東萊郡曲城県の人で、字は伯輿。幼くして父を失い、叔父の王翁に育てられた。孝行で知られ、17歳(206年ごろ)で郡の小吏に召されたが、性に合わず去って、琅邪で鄭玄に学んだ。
- 黄初年間(220〜226年)に孝廉に推されて郎中となり、青州刺史の王淩に見出されて別駕となった。王朗が転任を求めたが、王淩は手放さなかったと英語版は記す。のち司馬懿に招かれたが、赴く前に中書侍郎に転じた。
- 曹叡の時代、宮殿造営が民を疲れさせていると上疏して諫めた。儒学では、王粛の説に反対して、鄭玄の解釈を守ったと伝わる。
- 曹爽の時代、安豊太守となり、呉との国境の守りを固めて、呉に付け入る隙を与えなかった。英語版は、諸葛誕に、孫権は魏を攻めないと助言し、的中したと記す。
- 正始10年(249年)、王基は『時要論』を著して曹爽政権の腐敗を批判し、免官を請うた。河南尹に呼ばれたが、赴任の前に司馬懿のクーデターで曹爽が倒れた。曹爽の下にいたことで一度は免官されたが、まもなく尚書に呼び戻された。
- 嘉平2年(250年)、荊州刺史となり、王昶の呉遠征に別将として加わった。夷陵で歩協の軍を攻め、雄父の兵糧庫を襲って30万石を奪い、数千人を降した。この功で関内侯に封じられた。王昶に、拠点を江夏へ移すよう勧めたと英語版は記す。
- のち呉への侵攻を論じたとき、王基は、運河を通し、食糧を蓄え、軍船を整えるまで動くべきでないと説き、遠征は中止された。嘉平3年(251年)、司馬師にも政の心得を進言して、受け入れられた。
- 正元2年(255年)、毌丘倹・文欽が反乱を起こすと、王基は監軍代行として先鋒を率いた。反乱軍の下の官吏は強いられているだけで、朝廷の圧力で崩れると主張し、慎重論の命令に背いて、兵糧のある南頓を先に押さえた。のち項城の毌丘倹を降し、鎮南将軍・豫州刺史となり、安楽郷侯に封じられた。叔父への恩として、封邑のうち200戸を従弟の王僑に分けた。
- 甘露2年(257年)、諸葛誕が寿春で反乱を起こすと、王基は征東将軍代行となった。司馬昭は、攻めずに陣地を守るよう命じ、王基はこれに従った。寿春が陥落したのち、深く呉へ攻め入ろうとする司馬昭に、諸葛恪・姜維の失敗を例に挙げて反対し、司馬昭は攻撃を止めた。
- 征東将軍・東武侯となったが、王基は昇進を辞退し、功を部下に譲った。長史と司馬ら7人が侯に取り立てられた。258年に母が亡くなり、父の遺骨を洛陽に改葬した。
- 景元2年(261年)春、胡烈が、呉の鄧由・李光らが18の部隊を連れて降ると報せた。王基は罠を疑い、敵地へ軽々しく入ることを戒め、外の功を求めるべきでないと述べた。司馬昭は出兵を止め、鄧由・李光は結局降らなかった。
- 景元2年(261年)6月、在任中に没した。享年は71とも72ともされる。司空を追贈され、景侯と諡された。子の王徽が侯を継いだが早世し、孫の王毅が東武侯を継いだ。
- 墓碑の断片は、清の乾隆年間に洛陽で見つかり、いまは洛陽博物館にある。晋の泰始2年(266年)の詔は、王基の徳と倹約を褒め、遺族に下僕を賜った。陳寿は、学問と品行の両面で王基を高く評価した。
主な出典
『三国志』魏書 王基伝、裴松之注、『晋書』、日本語版(サードペディア経由)・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
贅を戒め、上官の方針にも諫言を重ねつつ、包囲の守りなど命令に従う場面では守った行動から、規律は高めに置いています。
曹爽の下でも専横を批判し、功を部下に譲り、呉の誘いにも慎重に備えた行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。