CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王凌
八十で司馬懿に挑み、賈逵の祠に叫んで死んだ魏の太尉
王凌は、魏の太尉です。董卓を討った王允の甥で、李傕らが長安で一族を皆殺しにしたとき城壁を越えて逃げのびました。曹操に見出され、四つの州の刺史を歴任し、芍陂で全琮を破り、夾石では曹休を死地から救い出しました。司馬懿が曹爽を殺して権力を握ると、八十歳で楚王曹彪を立てる計を進めましたが露見し、寿春の民を戦火から守るために自ら縛について降伏。洛陽への護送の途中、賈逵の祠の前で「賈梁道、王凌が大魏の忠臣であることを知るのは、お前だけだ」と叫び、毒を仰いで死にました。経歴は『三国志』魏書「王凌伝」をもとにしています。
太原祁の人で、字は彦雲。司徒王允の甥。192年、李傕・郭汜が長安で王允の一族を殺したとき、兄の王晨とともに城壁を越えて郷里に逃げた。孝廉に挙げられて発干長となったが罪で髡刑を受け、道を掃いていたところを曹操に見出され、驍騎主簿に取り立てられた。中山太守で治績を上げ、曹丕のもとで兗州刺史。洞口で張遼らと呂範を破り、青州で法度を立て直して民に慕われた。228年の夾石では敗れた曹休を力戦して囲みから救い、揚州・豫州刺史としても軍民の心を得た。241年、芍陂で全琮の数万を数日の激戦の末に退け、車騎将軍・儀同三司。司空、ついで太尉。司馬懿が曹爽を誅すると、甥の令狐愚と楚王曹彪擁立を謀ったが、令狐愚の死後に計が漏れ、251年、司馬懿が水路から急襲。王凌は民を戦火に巻き込まぬため自ら縛について降った。船上で「卿は我を負く」「我は卿を負くとも国家を負かず」と言葉を交わし、項県で賈逵の祠に叫んだのち、八十歳で服毒した。遺体は三日さらされ、一族は誅された。
THE WAY OF LIFE
王凌の生き方
長安で叔父の王允と一族が皆殺しになった夜、少年の王凌は兄と城壁を越えて逃げた。のちに罪を得て髪を剃られ、道を掃かされていたとき、通りかかった曹操が聞いた。「あれは誰だ」。「王允の甥です」。曹操は言った。「子師(王允)の兄の子か。罪も公の事だ」。そこから、この人の六十年が始まった。
司馬懿の船まで十余丈。縛を解かれ、印綬も節鉞も返されて、赦されたと思って小舟で近づいた王凌を、兵が止めた。王凌は叫んだ。「卿が一通の手紙で呼べば、私が来ないとでも思ったか。なぜ軍を率いて来た」。司馬懿は答えた。「卿は手紙で来る人ではないからだ」。「卿は私を裏切った」。「私は卿を裏切っても、国家は裏切らない」。
護送の途中、項県で棺の釘を所望した。釘が届いた。死ぬ日が決まったことを知って、賈逵の祠の前に立ち、叫んだ。「賈梁道、王凌が大魏の忠臣であることを知っているのは、お前だけだ」。その夜、旧い部下たちを呼んで言った。「八十にもなって、身も名も、ともに滅びるのか」。そして毒を仰いだ。その年の夏、司馬懿は夢に賈逵と王凌が祟るのを見て、病んで死んだ。
持ち味と、その裏側
文武を兼ね、刺史を四州務めて軍にも民にも慕われた統率力。夾石で曹休を救い、芍陂で全琮を破った戦場の粘り。蔣済は「文武ともに備わり、当世に並ぶ者なし」と評した。一方で、息子の王広が「廃立は人心に沿わない、司馬懿は民心を得ている」と止めたのを聞かず、八十にして計を急いだ。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
172年〜251年(享年80)
并州太原郡祁県の人。字は彦雲。司徒王允の甥。妹は郭淮の妻。
- 172年、太原祁に生まれた。叔父の王允は漢の司徒として董卓を誅した。192年、董卓の部将李傕・郭汜が長安に入って王允とその一族を殺したとき、王凌と兄の王晨はまだ若く、城壁を越えて逃れて郷里に帰った。若いころから司馬懿の兄・司馬朗や賈逵と親しかった。
- 孝廉に挙げられて発干長となったが、罪で髡刑五年を受け、道の掃除をさせられた。曹操の車が通りかかって「あれは何の徒だ」と問い、王允の甥だと聞くと「子師の兄の子か。罪も公の事だ」と言い、驍騎主簿に選ばれた(『魏略』)。中山太守として治績を上げ、曹操に丞相掾属として辟された。
- 220年、曹丕が即位すると散騎常侍、兗州刺史。222年、張遼らと広陵に至って孫権を討ち、夜の大風で呉の呂範らの船が北岸に流れ着いたところを迎え撃って首級と舟船を得、宜城亭侯・建武将軍となった。青州に転じると、戦乱後で法度が整っていなかった海辺の地に政教を布き、賞善罰悪の綱紀を立て、百姓は称えてやまなかった。
- 228年、曹休に従って呉を征ち、夾石で敵と遭遇して曹休軍が敗れると、王凌は力戦して囲みを決し、曹休は難を免れた。揚州・豫州刺史に転じ、いずれも軍民の歓心を得た。豫州に着くとまず先賢の子孫を顕彰し、まだ世に出ていない士を求めた。かつての友・司馬朗と賈逵が兗州・豫州で残した名跡を継いだ。
- 239年ごろ、征東将軍・仮節・都督揚州諸軍事。241年、呉の大将全琮が数万で芍陂を侵すと、諸軍を率いて迎え撃ち、堤を争って数日力戦し、呉軍を退けた。南郷侯に進み、車騎将軍・儀同三司。248年、司空。
- 甥の令狐愚が兗州刺史として平阿に駐屯し、甥と舅で淮南の兵を握った。249年、司馬懿が曹爽を誅すると、王凌は太尉・仮節鉞に進められたが、令狐愚と密かに謀り、斉王曹芳は帝位にふさわしくなく、楚王曹彪は年長で才があるとして、曹彪を迎えて許昌に都を置こうとした。司馬懿は以前、蔣済に王凌の才を問い、「文武ともに備わり当世に並ぶ者なし。子の王広は志が大きく父を上回る」と聞いていた。
- 洛陽の息子王広は使いに答えて言った。「曹爽は驕奢で民を失い、何晏は虚華で治めず、丁謐・畢軌らは名利を競った。だから一日で斬られても、名士の半分が去り、百姓は安んじて誰も哀しまなかった。民心を失ったからだ。司馬懿は本心は量りがたいが、賢能を抜擢し、先朝の政令を修め、民を恤むことを先にし、父子兄弟で兵権を握っている。倒すのは容易ではない。廃立は大事、禍の先駆けとなるな」。王凌は聞かなかった。
- 249年11月、令狐愚が曹彪に二度目の使者を送った直後に病死した。幕僚の楊康が司徒高柔に計を告げ、高柔は司馬懿に報せた。司馬懿は王凌が三公で証拠もないため動かず、腹心の黄華を兗州刺史に送った。250年、火星が南斗にとどまると、王凌は「斗の中に星がある、にわかに貴くなる者が出る」と言って計を固めた。
- 251年正月、呉が涂水を塞いだのを機に、王凌は討呉を名目に虎符を求めて出兵しようとしたが、詔は許さなかった。王凌は将軍楊弘を黄華に送って廃立を告げたが、黄華と楊弘は連名で司馬懿に告発した。4月、司馬懿は中軍を率いて水路を下り、まず王凌の罪を赦す令を下し、王広に手紙を書かせて諭しながら、大軍で一気に百尺に至って王凌に迫った。
- 王凌は勢いの尽きたことを知り、寿春の民を戦火に巻き込まぬため、掾の王彧を遣わして謝罪し、印綬と節鉞を送り、丘頭で自ら縛について水辺に出た。司馬懿は詔を承けて縛を解かせ、服を返し、慰労して印綬・節鉞も返した。王凌は赦されたと思い、小舟で司馬懿のもとへ向かったが、十余丈のところで止められた。「卿が一通の手紙で呼べば、私が来ないことがあろうか。なぜ軍を引いて来たのだ」「卿は手紙で来る人ではないからだ」「卿は私を裏切った」「私は卿を裏切っても、国家は裏切らない」(『魏略』)。
- 歩騎六百で洛陽へ送られる途中、項県で護送の隊長に棺の釘を求め、司馬懿の許しで釘が渡された。王凌は賈逵の祠の前で叫んだ。「賈梁道、王凌が大魏の忠臣であることを知っているのは、お前だけだ」。その夜、旧い掾属を呼んで「行年八十、身も名もともに滅びるのか」と言い、毒を飲んで死んだ。
- 司馬懿は寿春に至って事を究明し、曹彪に死を賜り、連座した者を三族まで誅した。朝議は春秋の義により、王凌と令狐愚の墓をあばいて棺を割り、近くの市に三日さらし、印綬と朝服を焼いて土に埋めた。王広も殺された、四十余歳。妹の郭淮の妻は連座して洛陽に送られることになったが、郭淮が部下と民の嘆願を受けて途中で引き戻し、「もし罪があるなら私も共に受ける」と司馬懿に上書して、助かった。同年8月、司馬懿は賈逵と王凌が祟る夢を見て、病んで死んだ(『晋書』)。
- 266年、晋の武帝司馬炎は「王凌は斉王の廃立を謀ったが、斉王は結局位を守るに足りなかった」として、王凌の家を赦し、後嗣を立てさせた。陳寿は毌丘倹・諸葛誕・鍾会と一伝にまとめ、「みな志が大きく迂遠で、禍を顧みず、一族を地に塗らせた」と評した。一方で宋の鄭樵は「晋の史官は晋に党して魏を無視し、魏に忠な者をみな叛臣と呼んだ。王凌・諸葛誕・毌丘倹は冤罪を抱いて黄泉にいる」と書き、元の郝経も「王凌が僭孽を廃して宗子を立てようとしたのは、大臣の節である」と弁護した。『三国志演義』では第107〜108回にかけて、司馬懿に降って毒を仰ぐまでが短く描かれる。
主な出典
『三国志』魏書「王凌伝」(王毌丘諸葛鄧鍾伝)、裴松之注引『魏略』、『晋書』宣帝紀、『資治通鑑』。経歴は 百度百科「王凌」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
刺史として法度を整え民に慕われた秩序の人である一方、皇帝の廃立という最大の越権を自ら企てました。秩序と裁量が同じ重さで同居する人として、規律は中立に置いています。
司馬懿の専権に抗して魏室を立て直そうとした一方、自分が主導権を握るための廃立でもあり、晋以来「叛臣」と「忠臣」の評価が分かれています。国のための動機と、自らの立場を賭けた動機が分けられない人として、中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。