CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
王允
漢室への忠義を貫き、董卓を討った司徒
王允は、字を子師といい、并州太原郡祁県の人です。名士の郭泰から「王佐の才がある」と評されたと伝わります。184年の黄巾の乱では豫州刺史として黄巾軍を破り、十常侍の張譲が黄巾軍と通じていることを告発しました。190年に司徒となり、董卓の暴虐を見て暗殺を計画し、董卓の寵臣の呂布を説き伏せて、192年4月に董卓を討ちます。しかし旧臣への厳しい処置が李傕・郭汜の反撃を招き、同年6月、長安に攻め入られました。呂布が脱出を勧めても、「国家が安泰であることが願いだ」と言って長安に残り、処刑されました。長安の人々は涙を流したと伝わります。『演義』の貂蝉の連環の計は、創作です。経歴は『後漢書』王允伝をもとにしています。
後漢の司徒。呂布を引き込んで董卓を討ったが、旧臣への厳しい処置が李傕・郭汜の反撃を招き、192年に殺された。
THE WAY OF LIFE
王允の生き方
曲がったことを許さず、やり遂げる。王允は、揺るがない信条と、国を思う強い責任感を併せ持つ人物像です。
正しさにこだわるほど、相手に譲れなくなる。信条と規律の高さと、統率の低さに、その誠実さと融通の利かなさを重ねています。
持ち味と、その裏側
筋を通す信念と、危険を承知で董卓を討つ決断力。一方で、融通が利かず、董卓の旧臣に妥協できなかったため、反撃を招きました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
137年〜初平3年(192年)
并州太原郡祁県の人。字は子師。
- 19歳で郡の役人となり、悪事を重ねていた趙津を処刑した。趙津の兄弟が宦官に賄賂を送って復讐を図り、上司の劉瓚が処刑されると、王允は劉瓚の棺を故郷に運んで、3年喪に服した。
- 新しい太守の人事を諫めて投獄されたが、刺史の鄧盛に救われて部下となり、名声が高まった。名士の郭泰から、「王佐の才がある」と評されたと伝わる。
- 184年の黄巾の乱では、豫州刺史として荀爽・孔融らを幕僚に迎え、黄巾軍を破った。その後、十常侍の張譲が黄巾軍と通じていることを告発したが、張譲の逆恨みで投獄され、多くの助命の嘆願で救われた。
- 190年、司徒となった。董卓が少帝を殺し、洛陽を焼いて長安に遷都するのを見て、暗殺を計画した。黄琬・士孫瑞と相談し、董卓の寵臣の呂布を説き伏せて計画に加わらせた。呂布が董卓の侍女と通じていたことや、董卓に手戟を投げつけられた恨みがあったことが、利用された。192年4月、董卓は暗殺された。
- 呂布を奮威将軍・温侯に任じ、董卓の一族を処刑した。董卓に近かった官僚も粛清し、その中には蔡邕(蔡琰の父)もいた。蔡邕は、董卓の死を悲しんだことを理由に投獄され、獄中で亡くなった。
- 呂布らが、董卓配下の涼州兵に大赦を出すよう求めても、「年に二度の大赦は慣例に反する」として退けた。李傕・郭汜らの降伏の願いも許さなかった。
- 192年6月、李傕・郭汜が、賈詡の助言で長安に攻め入った。胡軫・楊定の裏切りもあり、王允と呂布は敗れた。呂布は王允にも脱出を勧めたが、王允は「国家が安泰であることが願いだ。幼い陛下は私だけを頼りにしている」と言って、長安に残った。捕らえられて処刑され、長安の人々は涙を流したと伝わる。のちに献帝は、その忠節を思い、葬り直させた。
- 『三国志演義』では、王允は養女の貂蝉を使って、董卓と呂布の仲を裂く「連環の計」を立てる。また、七星宝刀を曹操に渡して、董卓の暗殺を頼む。
主な出典
『後漢書』王允伝、『三国志』魏書 董卓伝・呂布伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
年に二度の大赦は慣例に反するとして退けるなど、決まりを守る姿勢から、規律は秩序寄りとしています。
董卓を討ち、漢の朝廷を立て直そうとした忠義から、動機は善寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。