CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
牽招
師の棺にすがり、旧主の首に祭りを捧げた北辺の将
牽招は、字を子経といい、冀州安平郡観津県の人です。十代のころ同郷の楽隠に師事し、若い劉備とは「刎頸の交わり」を誓った仲と伝わります。189年、師が洛陽の混乱で殺されると、その棺を守って帰郷する途中で賊に襲われ、ほかの門人が逃げるなか、棺にすがって見逃しを願い、賊に許されて名を知られました。袁紹・袁尚に仕えたのち曹操に降り、建安12年(207年)には、公孫康が送ってきた袁尚・袁煕の首に祭りを捧げましたが、曹操は罰せず茂才に推挙しました。のち護鮮卑校尉・雁門太守として北辺を守り、太和2年(228年)には馬邑城で包囲された田豫を救い、軻比能を破っています。経歴は『三国志』魏書 満田牽郭伝(牽招伝)をもとにしています。
冀州安平郡の人。師の棺を守って賊に見逃された逸話で名を知られた。袁紹・袁尚に仕えたのち曹操に降り、烏桓・鮮卑への対応で功を立てた。雁門太守として北辺を守り、軻比能と戦った。
THE WAY OF LIFE
牽招の生き方
賊の前で、師の棺にすがって離れなかった。牽招は、情と義を重く置く人物像です。
のちには、北辺の異民族との折衝と防衛を任された。決断と統率の高さに、その働きを重ねています。
持ち味と、その裏側
義理を曲げない胆力と、異民族と渡り合う交渉・統率の力。北辺で長く安定を保った実績。一方で、陳寿が評するとおり、太守程度の地位では力を十分に生かしきれなかった人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜没年未詳(太和2年〈228年〉以降)
冀州安平郡観津県の人。字は子経。子に牽嘉・牽弘。孫に牽秀。
- 冀州安平郡観津県の人で、字は子経。十代のころ、同郷の楽隠に師事した。若い劉備とは親しく、「刎頸の交わり」を誓った仲と伝わる。
- 中平6年(189年)、楽隠は何苗の長史となったが、洛陽の混乱で何苗とともに殺された。牽招は師の棺を守って帰郷する途中、賊に襲われた。ほかの門人が逃げるなか、棺にすがって見逃しを願い、その義気に打たれた賊に許されて、名を知られた。
- その後は袁紹に仕えて督軍従事となり、烏桓の騎兵を兼ねて率いた。袁紹の死後は、袁尚に仕えた。
- 建安9年(204年)、中山に逃れた袁尚のため、高幹に救援を求めに行ったが、高幹に殺されそうになって逃げた。袁尚のもとへ戻れず、曹操に降り、冀州従事となった。
- 烏桓の峭王を、袁譚から引き離すために柳城へ遣わされた。そこで公孫康の部下の韓忠が曹操を悪く言ったため、牽招は韓忠を斬ろうとしたが、峭王の謝罪を受けて剣を収めた。峭王は曹操に従った。
- 建安12年(207年)、公孫康が袁尚・袁煕の首を曹操に送ってきた。牽招は、その首に祭りを捧げた。曹操は罰せず、むしろ茂才に推挙した。
- 建安20年(215年)には、漢中の征討に従い、平定後は中護軍として留まった。のち鄴に戻り、平虜校尉として青州・徐州の兵を率いて、東萊の賊を破った。
- 黄初元年(220年)、曹丕が即位すると、使持節・護鮮卑校尉となり、昌平に駐屯して鮮卑を監督した。寛大な統治で、素利・弥加ら十数万家と、歩度根・泄帰泥ら三万家の部落を帰順させたと伝わる。
- 右中郎将・雁門太守としては、田地の開墾と治安の安定に努めた。雲中では、泄帰泥らを指揮して、軻比能の軍を破った。
- 太和2年(228年)、護烏桓校尉の田豫が馬邑城で軻比能に包囲されると、牽招はすぐに救援へ向かって田豫を救い、軻比能を破った。その後、諸葛亮と連絡を取る軻比能を討つ計画を進めている途中で、亡くなったと伝わる。没年は本文に書かれていない。
- 陳寿は、義を守る姿勢が激しく、威厳と功績が際立っていたが、太守程度の地位では能力を生かしきれなかった、と評している。牽招は『三国志演義』には登場しない。
主な出典
『三国志』魏書 満田牽郭伝(牽招伝)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法や上官の命に従いながらも、旧主への祭りのように、自分の義を通す場面があるため、規律は秩序寄りとしています。
師や旧主への義を貫いた逸話が多く、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。