CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
潘皇后
奴婢から皇后にのぼった、江東の絶色
潘皇后は、揚州会稽郡句章県の人で、名は潘淑とされ、孫権の晩年の皇后、孫亮の母です。父が罪を犯して処刑されたため、姉とともに奴婢として織室に配属されました。その美貌を孫権に見初められて後宮に召され、「江東の絶色」と称されたと伝わります。赤烏7年(244年)に孫亮を産み、太元元年(251年)に皇后となりました。姉の解放を願い出て実現させ、仏教への信仰も篤かったといいます。神鳳元年(252年)、孫権の看病の疲れで昏睡するなか、宮女たちに絞め殺されました。『三国志』は殺害の理由を書いておらず、諸説があります。経歴は『三国志』呉書 妃嬪伝をもとにしています。
孫権の晩年の皇后で、孫亮の母。罪人の娘として織室の奴婢となったが、その美貌が孫権の目にとまって寵愛を受け、皇后にのぼった。孫権の看病疲れのあと、宮女たちに絞め殺された。
THE WAY OF LIFE
潘皇后の生き方
美しさと存在感で、人の心を引き寄せる。潘皇后は、際立つ表現力と、地位を掴みとる挑戦心を併せ持つ人物像です。
身一つで上りつめた。表現と挑戦の高さと、統率と信条の低さに、その華やかさと、足元の危うさを重ねています。
持ち味と、その裏側
人を引きつける華やかさと、皇后の座まで上りつめた挑戦心。一方で、嫉妬深さや、周りの宮女への厳しさが恨みを買い、孫権という後ろ盾を失ったあと、その身を守ることができませんでした。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜神鳳元年(252年)
揚州会稽郡句章県の人。下級役人の次女。父が罪で処刑され、姉とともに奴婢となった。名は潘淑とされる。
- 揚州会稽郡句章県の人。父が罪を犯して処刑されたため、姉とともに連座し、奴婢として織室に配属された。
- その美貌を孫権に見初められ、織室から後宮に召された。「神女」「江東の絶色」と称されたと伝わる。
- 赤烏7年(244年)、孫亮を産んだ。龍の頭を授かる夢を見た、という伝説が残る。
- 赤烏13年(250年)、孫亮が皇太子に立てられ、太元元年(251年)5月に、皇后となった。この慶事で、改元と大赦が行われた。
- 政治への関心もあり、「前漢の呂后が政を執った経緯を知りたい」と人に尋ねさせた、と伝わる。嫉妬心が強く、ほかの妃を中傷したともいう。
- 一方で、姉の解放を願い出て、実現させた。仏教への信仰も篤く、武昌に恵宝寺を建てたとされる。
- 神鳳元年(252年)2月、孫権の看病の疲れで病に伏し、昏睡のなか、宮女たちに絞め殺された。急病で死んだことにされたが、のち露見し、関与した六、七人が死刑になった。
- 『三国志』は、殺害の理由を書いていない。宮女への苛烈な扱いが恨まれた、権臣による政治的な暗殺だった、など諸説がある。孫亮は、258年に廃位された。
主な出典
『三国志』呉書 妃嬪伝(孫権潘夫人)、『建康実録』『資治通鑑』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
決まりより、自分の立場と感情で動いたと伝わる姿から、規律は裁量寄りとしています。
自分の栄達を求める面と、姉を救うなど情のある面の両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。