三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

← 武将図鑑

CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

潘濬

呂壱を宴席で手討ちにしようとした、荊州の旧臣で呉の社稷の臣

潘濬は、字を承明といい、武陵郡漢寿県の人です。劉表、劉備に仕えて荊州の治中となりましたが、荊州を守る関羽とは不和でした。建安24年(219年)に孫権が荊州を取ると、将吏が皆帰服するなか、病と称して会わず、孫権は床ごと運ばせます。潘濬が顔を床に伏せて涕泣すると、孫権は古人の例を引いて語りかけ、手巾で顔を拭わせて、潘濬はやがて仕えました。武陵の反乱を鎮め、黄龍3年(231年)には呂岱とともに五渓蛮を討伐し、のち荊州の事務を管理して、赤烏2年(239年)に没します。経歴は『三国志』呉書 潘濬伝をもとにしています。

字は承明。武陵郡漢寿県の人。劉表、劉備に仕えて荊州の治中となったが、関羽と不和だった。孫権が荊州を取ると、病と称して会わず、孫権に床ごと運ばれて泣き、やがて仕えた。五渓蛮の討伐、荊州の統治、呂壱の排除に力を尽くし、赤烏2年(239年)に没した。

THE WAY OF LIFE

潘濬の生き方

孫権が自ら床ごと家から運ばせても、顔を床に伏せて泣いた。初めは降りたくなかった人の、情の深さが見えます。

その後、呂壱の専横には、自分の手で斬ろうとするほど怒った。決断と挑戦は最高に置いています。

持ち味と、その裏側

人を見て短い言葉で判断する眼力(樊伷を『侏儒の一節』と見抜いた逸話)。降った後は、荊州の軍事・治安を担い、五渓蛮の討伐でも賞罰を明らかにして成果を上げた。呂壱を、孫権に何度も申し立てて遠ざけさせた、根気と激しさ。法を畏れず、豫章の名士徐宗を殺す厳しさ。一方で、降臣として呉に仕えたことには、後世に批判もある。蘇轍は、旧主の関羽・劉備への厚情と、荊州での振る舞いとを比べて疑問を呈した。表現は、言葉よりも行動で示す人のため中程度に置いています。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生年不詳〜赤烏2年(239年)

武陵郡漢寿県(現在の湖南省漢寿)の人。字は承明。表兄に蜀の蔣琬。子は潘翥・潘秘。娘は孫慮に嫁いだ。劉陽侯。官は太常。

  1. 武陵郡漢寿の人で、字は承明。『聡察で、対問に機理がある』とされ、21歳のころに大儒の宋忠(仲子)に学び、山陽の王粲に見出されて知られた。30歳前に荊州牧の劉表に江夏従事として招かれた。
  2. 沙羨県の長が汚職を働くと、潘濬は審査して処刑し、一郡が震え上がった。のち湘郷令となり、よく治めて名を知られた。建安14年(209年)、劉備が荊州を領すると、治中従事に任じた。建安16年(211年)、劉備が益州へ入るとき、荊州の州事を留守として任された。潘濬は、荊州を守っていた関羽と不和だった。
  3. 建安24年(219年)、孫権が関羽を討って荊州を取ると、将吏は皆帰服したが、潘濬だけは病と称して会わなかった。孫権は人に床ごと家から運ばせた。潘濬は顔を床に伏せ、涕泣して哀咽し、堪えきれなかった。
  4. 孫権は「承明、昔、観丁父は鄀の虜だったが武王が軍帥にした。彭仲爽は申の虜だったが文王が令尹にした。この二人は卿の荊国の先賢で、はじめ囚われても後に抜擢されて名臣となった。卿だけがそうでないのは、孤が古人の度量に及ばないとでも言うのか」と語りかけ、近侍に手巾で顔を拭わせた。潘濬は起きて拝謝し、治中として荊州の諸軍事を任された。
  5. のち武陵の従事の樊伷が諸夷を誘い、武陵を劉備に属させようとした。孫権が1万人を差し向けようとすると、潘濬は「5千で足ります」と述べた。孫権が「卿はなぜ彼を軽く見るのか」と問うと、「樊伷は南陽の旧姓で、口は達者ですが、実際の弁論の才はありません。彼が州の人のために宴会を設けたとき、日中になっても食べ物が出ず、十余人が自ら席を立ちました。侏儒が一節だけを見て全体を知るのと同じです」と答えた。孫権は大笑いし、潘濬に5千人を率いさせ、樊伷を斬って平定した。
  6. 奮威将軍に進み、常遷亭侯に封じられた。黄武6年(226年)、奮武中郎将の芮玄が没すると、その兵を併せ、夏口に屯した。このころ、驃騎将軍の歩騭が漚口に屯し、諸郡で兵を募ることを求めた。孫権が潘濬に問うと、潘濬は「豪将が民間にいて、民を乱し害します。歩騭は名勢があり、左右に諂われています。許してはなりません」と答え、孫権は従った。
  7. 黄龍元年(229年)、孫権が帝を称すると、少府に任じられ、劉陽侯に進み、のち太常に転じた。黄龍3年(231年)、符節を授けられ、呂岱とともに5万の兵で五渓蛮の討伐を督し、賞罰を明らかにして、数年間で数万を斬獲し、虜にした。これにより五渓蛮は衰え、一方は安らいだ。
  8. 嘉禾3年(234年)11月、武昌に戻った。長く上大将軍の陸遜とともに武昌に屯し、荊州の事務を管理した。嘉禾4年(235年)、従兄の蔣琬が蜀の大将軍になると、潘濬が蔣琬に密使を送り、蜀に投じようとしている、という噂が流れた。武陵太守の衛旌が上表すると、孫権は「承明はそのようなことをしない」と言い、衛旌を免官した。
  9. 潘濬は、孫権の信任する校事の呂壱が、法を酷くし、権勢を弄ぶことを、陸遜と憂えた。語りながら涙を流し、不安と恐れを感じた。嘉禾5年(236年)、呂壱が丞相の顧雍と左将軍の朱拠を弾劾して捕らえさせた。黄門侍郎の謝厷が呂壱に「顧公が免じられたら、誰が代わるのか」と尋ねたが、呂壱は答えなかった。
  10. 謝厷は「潘太常ではないか」と言った。呂壱はしばらくして「その可能性が高い」と答えた。謝厷は「潘太常は貴公に切歯して恨んでいるが、遠くにいて機会がないだけです。もし顧公に代わったら、翌日には貴公を撃つでしょう」と言った。呂壱は大いに恐れ、顧雍の件は沙汰やみになった。
  11. 潘濬は朝見を請い、力を尽くして諫めようとしたが、太子の孫登がすでに何度も言って聞き入れられなかったと知った。そこで、大規模に百官を宴会に招き、席上で自分の手で呂壱を殺そうとしたが、計画が漏れ、呂壱は病と称して出なかった。潘濬は孫権に近く会うたびに呂壱の奸険を述べ、呂壱の寵は衰え、ついに誅された。孫権は自らを責め、大臣に謝罪した。詔で、諸葛瑾・歩騭・朱然・呂岱らが責任を押し付けたことを咎め、陸遜と潘濬が国を憂えたことを称えた。
  12. 潘濬は法を奉じ、他人の議論を恐れなかった。中郎将で豫章の名士の徐宗が部下を放縦にして、節度に従わなかったため、潘濬は殺した。降臣の隠蕃が弁才で豪傑に好まれ、息子の潘翥も交際すると、潘濬は書を送って息子を痛罵した。人々は分からなかったが、のち隠蕃が叛乱を謀って殺されてから、人々は服した。
  13. 孫権が雉射りを好むと、潘濬は諫めた。孫権が「前に別れてから、以前ほど射ていない」と言うと、潘濬は「天下が定まらず、務めが多いのに、雉射りは要務ではありません。弓も弦も壊れれば傷つきます。臣のためにやめてください」と述べ、雉の羽で作った車蓋を自ら壊した。孫権は雉射りをやめた。
  14. 赤烏2年(239年)、没し、子の潘翥が継いだ。潘翥は早世し、弟の潘秘が仕えた。娘は孫慮に嫁いだ。歩騭は潘濬を、顧雍・陸遜とともに『心膂股肱、社稷の臣』と称えた。陳寿は『公清割断』(公平で清く、決断が鋭い)と評し、郝経は『方厳にして悪を疾み、義が色に形れ、梗梗として大節あり。有呉の棟石』と評した。
  15. 一方、蘇轍は、荊州の降臣としての潘濬を、旧主への厚さと、樊伷の討伐での振る舞いを比べて疑問を呈した。楊戯も、旧主を離れた奔臣として批判した。『三国演義』では、関羽の司馬の王甫が「潘濬は平生、多忌で利を好む」と警告し、関羽は聞き入れなかった、と描かれる。

主な出典
『三国志』呉書 潘濬伝(百度百科が引く本文)、裴松之注『江表伝』『呉書』、蘇轍・郝経・胡三省の評、日本語版・英語版Wikipediaの記述

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:秩序・善

法を恐れず、部下を放縦にした名士を斬り、息子が交友した降臣の隠蕃を見抜いて叱った行動から、規律は高めに置いています。

呂壱の悪を宴席で自らの手で断とうとし、郷里の叛乱にも先手を取った行動から、動機は他者寄りの側に置いています。降臣としての立場は後世に批判もあるため、その点は本文に記します。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

診断結果の保存・共有

画像を長押し、または「PNGを保存」から保存できます。

診断結果の保存用カード
PNGを保存 ↓

「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

表示を選ぶと、あなたの分類名が結果画面・保存画像・コピー・Xの投稿文に含まれます。いつでも非表示に戻せます。