CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
温恢
曹魏の扬州刺史・涼州刺史
温恢は、太原郡祁県の人で、涿郡太守・温恕の子です。父の死後、家財を一度に散じて宗族を助け、州里から高く評価されました。曹操に召されて丞相主簿となり、孫礼が自首してきた際には、その義を曹操に報告して、孫礼と馬台の死罪を減じさせます。揚州刺史として前線を守り、建安24年(219年)には、関羽の樊城攻めを見越して、裴潜に早めの出兵を勧めました。黄初年間に魏郡太守を経て涼州刺史に任じられましたが、黄初4年(223年)、赴任の途中で病没しました。45歳でした。経歴は『三国志』魏書 劉司馬梁張温賈伝をもとにしています。
太原郡祁県の人。涿郡太守温恕の子。父の死後、家財を一度に散じて宗族を助け、州里から高く評価された。曹操に召されて丞相主簿となり、孫礼が自首してきた際には、その義を曹操に報告して孫礼と馬台の死罪を減じさせた。扬州刺史として前線を守り、関羽の樊城攻めを見越して備えを促した。黄初年間には魏郡太守を経て涼州刺史に任じられたが、赴任の途中で没した。
THE WAY OF LIFE
温恢の生き方
建安24年(219年)、孫権の合肥攻めを受けた時、関羽が水の増すのに乗じて樊城を攻めると読み、兖州刺史の裴潜に早めの出兵を勧めた。その読みどおりとなった。
父の死後、家財を宗族に散じ、州里から郇越に比せられた。黄初4年(223年)、涼州刺史へ赴く途中で病没した(45歳)。
持ち味と、その裏側
時勢を読む先見と、大局を見通す判断。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
178年〜223年(黄初4年・45歳で没)
太原郡祁県(現在の山西省祁県)
- 178年: 生まれる。涿郡太守温恕の子。
- 父の死後: 家財を散じて宗族を助ける。(年は不明)
- 丞相主簿となる。孫礼の件を曹操に報告し、孫礼と馬台の死罪を減じさせる。
- 扬州刺史となる。曹操は蒋済を別駕として補佐させる。
- 建安24年(219年): 関羽の樊城攻めを予測し、裴潜に早めの出兵を勧める。
- 黄初元年(220年): 侍中となり、のち魏郡太守。
- 黄初4年(223年): 涼州刺史・護羌校尉として赴任する途中、病没。45歳。
主な出典
『三国志』魏書 劉司馬梁張温賈伝(裴松之注を含む)。曹丕の詔と、陳寿の評を含む。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
規律3のため中立。丞相主簿として軍中の罪法を司り、義のある者には減刑を求めた。
家財を惜しまず困窮者に散じ、義を重んじる人を庇った。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。