CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
毛皇后
招かれなかった宴について問うたのち、曹叡に死を命じられた皇后
毛皇后は、河内郡の人で、父は毛嘉、魏の明帝・曹叡の皇后です。黄初年間に平原王府に入って曹叡の寵愛を受け、太和元年(227年)11月に皇后に立てられました。父の毛嘉は列侯に、弟の毛曾は駙馬都尉となります。のちに曹叡が郭夫人を寵愛すると、寵愛は衰えました。景初元年(237年)9月、曹叡が後園で宴を開いた際、郭夫人が皇后を招くよう勧めましたが、曹叡は許さず、口外を禁じます。毛后がそれを知って翌日、「昨日北園で宴をしたのは楽しかったか」と問うと、曹叡は侍従が漏らしたとみて十数人を殺し、毛后に死を賜りました。経歴は『三國志』巻五 明悼毛皇后伝をもとにしています。
魏の明帝・曹叡の皇后。寵愛を失ったのち、招かれなかった宴について問うたことが曹叡の不興を買い、死を賜った。
THE WAY OF LIFE
毛皇后の生き方
曹叡の皇后として立てられ、一時は寵愛を受けた人物です。
郭夫人の寵愛が深まるなかで、招かれなかった宴について問うたことが、死につながったと伝えられます。
持ち味と、その裏側
宮中での立場が揺らいでも、事実を知ったうえで言葉を発した人物像。その言葉が結果として身を危うくした点も、本伝から読み取れます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(景初元年に死去)
河内郡の人。父は毛嘉。
- 黄初年間に平原王府に入り、曹叡の寵愛を受けた。
- 太和元年(227年)十一月、皇后に立てられた。父の毛嘉は列侯に、弟の毛曾は駙馬都尉となった。
- のちに曹叡が郭夫人を寵愛すると、毛后への寵愛は衰えた。
- 景初元年(237年)九月、曹叡が後園で宴を開いた。郭夫人が皇后を招くよう勧めたが、曹叡は許さず、侍従に口外を禁じた。
- 後に毛后はそれを知り、翌日「昨日北園で宴をしたのは楽しかったか」と問うた。曹叡は侍従が漏らしたとみて、十数人を殺し、毛后に死を賜った。
- 死後も「悼皇后」の諡号を与えられ、愍陵に葬られた。
主な出典
『三國志』巻五「明悼毛皇后伝」(本伝の本文)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・悪
宴の一言から死に至った経緯に着目し、規律は秩序寄りとしています。
立后から死に至るまでの経緯を本伝の記述どおりに示し、曹叡と毛后それぞれの心情は断定していません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。