CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
毛玠
「天子を奉じて不臣に令す」と曹操に説き、清廉な選考で天下の風を変えた尚書僕射
毛玠は、字を孝先といい、陳留郡平丘の人で、後漢末から魏の官僚です。若い頃は県の役人として清廉公正で知られました。兗州を治めていた曹操に、「天子を奉じて従わぬ者に命じ、田を耕して軍の蓄えを積むべきです」と説き、その後の曹操の道筋を描きました。崔琰とともに人材の選考を任されると、清廉な人だけを推し、高官でさえ服や車を飾らなくなったといいます。後継ぎを問われると密かに曹丕を推しました。崔琰の死を悲しんだのち、自らも讒言で獄に入れられますが、助命されて家で没しました。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は孝先。陳留郡平丘の人。若い頃は県の役人で、清廉公正で知られた。戦乱を避けて荊州へ向かったが、劉表の政令が明らかでないと聞いて、魯陽へ行き先を変えた。曹操が兗州を治めると治中従事に招かれ、「天下は崩れ、君主は都を移され、民は生業を失って飢え、国には一年の蓄えもありません。袁紹・劉表は兵も民も多いが、先を見て基を築く者がいない。戦は義のある側が勝ち、位は財で守るもの。天子を奉じて従わぬ者に命じ、耕作に励み、軍の蓄えを積めば、覇王の業は成ります」と説いた。曹操はこれを敬って受け入れ、幕府の功曹に移した。曹操が司空・丞相となると東曹掾として崔琰とともに人材の選考を担い、名声だけで行いの伴わない者は最後まで用いなかった。倹約を率先し、天下の士はみな清廉に努め、寵臣でさえ車や服を度を越して飾らなくなった。右軍師を経て、魏国が建てられると尚書僕射となり、再び選考を担う。崔琰が死を賜ると内心喜ばず、のちに「顔に入れ墨をされた罪人の妻子が官の奴婢にされたのを見て、『天が雨を降らせないのはこのためだ』と言った」と訴えられて獄に入れられた。桓階・和洽の取りなしで免職にとどまり、家で没した。曹操は棺と器、銭と絹を贈り、子の毛機を郎中とした。
THE WAY OF LIFE
毛玠の生き方
五官中郎将の曹丕が自ら訪ねてきて、身内の者の取り立てを頼んだ。毛玠は「私は職を守ることで、幸いにも罪を免れてきました。いまのお話の方は、昇進の順にかなっていません。ですから、お受けできません」と断った。
選考の厳しさを恐れた人々が「昔から西曹が上、東曹が下です。東曹を廃しましょう」と言い出した。曹操はそのわけを見抜き、「日は東から出て、月も東で満ちる。方角を言うときも東が先だ。なぜ東曹を廃するのか」と言って、西曹のほうを廃した。
持ち味と、その裏側
先を見る構想と、私情を挟まない清廉さ。「天子を奉じて不臣に令す」の言葉は、のちの曹操の献帝の迎え入れと屯田に先立つ道筋だった。選考では、手柄がないのに私財を蓄えた役人をみな退け、帰ってきた長官が垢じみた顔とぼろの服で粗末な車に乗るほどだったという。曹操は「人の用い方がこうなら、天下の人が自ら治まる。わしの出る幕はない」と嘆じ、柳城の戦利品から飾りのない屏風と脇息を贈って「君には古人の風がある」と言った。後継ぎについては「袁紹は嫡と庶を分けずに一族を滅ぼしました」と密かに諫め、曹操は宴の席で毛玠を目で指して「わしの周昌だ」と言った。獄では、蕭望之・賈誼・白起・晁錯・伍子胥の例を引いて堂々と弁明し、讒言した者との対決を求めた。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜没年不詳(216年の崔琰の死より後)
陳留郡平丘の人。字は孝先。
- 若い頃: 県の役人となり、清廉公正で知られる。
- 戦乱の中: 荊州へ避難しようとしたが、劉表の政令が明らかでないと聞いて、魯陽へ向かった。
- 曹操が兗州を治めた頃: 治中従事に招かれ、「天子を奉じて不臣に令し、耕植を修め、軍資を蓄えよ」と説く。曹操は敬って受け入れ、幕府の功曹とした。
- 曹操が司空・丞相の頃: 東曹掾として崔琰とともに人材の選考を担う。清廉な人だけを推し、名声だけの者は用いなかった。
- 曹丕の頼み: 五官中郎将の曹丕が自ら身内の取り立てを頼んだが、昇進の順にかなわないと断った。
- 東曹の存廃: 選考を恐れた人々が東曹を廃そうとしたが、曹操は見抜いて、西曹のほうを廃した。
- 柳城の後: 曹操から飾りのない屏風と脇息を贈られ、「君には古人の風がある」と言われる。高い位でも布の衣と野菜の食事で暮らし、兄の遺児を手厚く育て、賜り物は貧しい一族に分けた。
- のち: 右軍師となる。
- 213年: 魏国が建てられ、尚書僕射となって再び選考を担う。後継ぎについて密かに諫め、曹操に「わしの周昌だ」と言われた。
- 216年以降: 崔琰が死を賜ると、内心喜ばなかった。のちに讒言されて獄に入れられ、大理の鍾繇に問いただされたが、堂々と弁明した。
- 晩年: 桓階・和洽の取りなしで免職にとどまり、家で没した。曹操は棺と器、銭と絹を贈り、子の毛機を郎中とした。
- 『三国志演義』では: 兗州で曹操のもとに来て、のちに典農中郎将として兵糧を督促する。赤壁では、蔡瑁・張允を斬ったあとの水軍を于禁とともに任される。
主な出典
『三国志』魏書「崔毛徐何邢鮑司馬伝」(毛玠伝)と、その注に引く『先賢行状』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法と順序に従って選考し、太子の曹丕の頼みでさえ順にかなわないと断ったことから、規律は秩序寄りに置いています。
高い位にいても布の衣と野菜の食事で暮らし、賜り物を貧しい一族に分け与えたことから、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。