CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
毌丘倹
高句麗の都を破り、司馬師に最後の兵を挙げた魏の将
毌丘倹は、字を仲恭といい、司隷河東郡聞喜県の人です。曹叡が即位すると東宮時代からの旧知として信任され、景初2年(238年)には、司馬懿を大将とする軍の副将として公孫淵を滅ぼしました。正始年間には一万の兵を率いて高句麗を攻め、王の位宮と二万の兵を梁口で破り、都を破壊します。1906年に発見された「毌丘倹紀功碑」は、この遠征に関わるものとみられています。254年に親しかった夏侯玄らが処刑され、曹芳が廃位されると、同じ運命を恐れ、正元2年(255年)正月に文欽と寿春で挙兵しました。敗れて逃げる途中、水辺の草むらに隠れていたところを民の張属に見つかり、射殺されます。経歴は『三国志』魏書 毌丘倹伝・三少帝紀をもとにしています。
魏の将。公孫淵討伐と高句麗遠征で名を上げた。曹髦の世となって司馬師の専横を恐れ、255年に文欽と寿春で挙兵した。敗れて逃げる途中、慎県で民に射殺された。
THE WAY OF LIFE
毌丘倹の生き方
遼東・高句麗・淮南と、各地の方面軍を預かった。毌丘倹は、遠い地で大きな軍を動かす人物像です。
勝ち目の薄い中で、司馬師に兵を挙げた。挑戦と決断を高く置いています。
持ち味と、その裏側
遠方の方面軍をまとめて動かす統率と、公孫淵や高句麗を破った実績。先を読む構想。一方で、夏侯玄らの死を見て決起した動きは早く、準備や味方の取りまとめには余裕を欠いたと見える人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜正元2年(255年)
司隷河東郡聞喜県の人。字は仲恭。父は毌丘興。弟に毌丘秀。子に毌丘甸・毌丘宗ら。姓は「毌丘(かんきゅう)」とも「毋丘(ぶきゅう)」とも書かれ、読みも研究者の間で見解が分かれる。
- 司隷河東郡聞喜県の人で、字は仲恭。父の毌丘興は、将作大匠・高陽郷侯となった。毌丘倹は、曹丕の時代に平原侯(のちの曹叡)の文学となった。
- 太和元年(227年)、曹叡が即位すると、東宮時代からの旧知として信任を受け、尚書郎から羽林監に移った。洛陽の典農になると、農民を動員する宮殿の造営を諫めた。
- 青龍3年(235年)に荊州刺史となり、翌年には幽州刺史・度遼将軍・護烏丸校尉として、遼東の平定を提案して認められた。景初元年(237年)、公孫淵との戦いは、『三国志』の記述が食い違う。毌丘倹伝は不利で撤退したとし、明帝紀は長雨による氾濫で引いたとする。
- 景初2年(238年)、司馬懿を大将、毌丘倹を副将とする軍が、公孫淵を滅ぼした。毌丘倹は安邑侯に進み、食邑は三千九百戸になった。
- 正始年間、毌丘倹は一万の兵を率いて高句麗を攻め、王の位宮(東川王)と二万の兵を梁口で破った。さらに都を破壊し、翌年には再び攻めて、位宮は買溝へ逃れた。玄菟太守の王頎が追撃して粛慎の南の境まで至り、功績を石碑に刻んだ。年は史料ごとに異なり、東夷伝は正始5年、毌丘倹伝は6年、斉王紀は7年とする。1906年に発見された「毌丘倹紀功碑」は、242年(正始3年)ごろの建立とみられている。
- 248年に豫州刺史、のち鎮南将軍となった。252年、孫権の死後に呉を討つ策に加わり、東興の戦いで魏軍が敗れたが、司馬師は責任を自分に置いて諸将を咎めなかった。毌丘倹は諸葛誕と任地を替え、鎮東将軍・都督揚州諸軍事になった。
- 253年、諸葛恪が合肥新城を囲んだ際は、司馬師の指示に従って守り抜いた。
- 254年、親しかった夏侯玄・李豊らの司馬師排斥の計画が発覚し、夏侯玄らは処刑された。曹芳は廃位され、曹髦が立てられた。陳寿は、毌丘倹が夏侯玄の二の舞になることを恐れたと記す。
- 正元2年(255年)正月、彗星の出現を吉兆と見て、揚州刺史の文欽と寿春で挙兵した。郭太后の詔を称して、司馬師の罪を十一か条挙げて弾劾したとされる。毌丘倹は項城を守り、文欽は外で遊軍となった。両名は、それぞれ子を人質として呉に送った。
- 司馬師は十数万の兵で包囲し、戦闘を禁じて、淮南の将兵の家族が北にあることを利用して離反を誘った。文欽が楽嘉で敗れて呉へ走ると、毌丘倹は夜のうちに項城から逃げた。まわりの者も去り、わずかな親族と水辺の草むらに隠れていたところを、民の張属に見つかって射殺された。首は都へ送られた。
- 弟の毌丘秀らは呉へ逃れた。長男の毌丘甸は霊山に逃れたが、三族は呉へ逃れた者を除いて皆殺しになった。人質として呉にいた子の毌丘宗は、呉の滅亡後、晋の太康年間に帰還した。
- 陳寿は、毌丘倹には卓抜した才能と見識があったとしながら、王淩・諸葛誕・鍾会と同じく、大きな野心から事を起こして一族を滅ぼしたと評した。一方、習鑿歯は、明帝の遺命に感じて挙兵したとして、忠臣と呼んでよいと称えた。
主な出典
『三国志』魏書 毌丘倹伝(巻28、裴松之注を含む)・三少帝紀
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
法を重んじて諫言もしたが、最後は朝廷の実権者に兵を挙げたため、規律は中間に置いています。
夏侯玄・李豊らと親しく、司馬師の専横に抗して挙兵した記録から、動機は他者寄りの側に置いています。ただし、陳寿は野心も指摘しています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。