CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
段熲
羌を討ち続け、後に宦官と結んだ将
段熲は、後漢末の涼州武威郡の出身で、西羌・東羌の討伐を長く担った将です。長矛・強弩・騎兵を組み合わせ、追撃を徹底したと記されます。一方で、病気の兵士を見舞い、自ら傷を包んだという記録もあります。後年は宦官王甫に近づき、179年に獄中で鴆毒を飲んで死にました。武功と政治的な責任を、どちらも隠さずに紹介します。
後漢の将。武威郡姑臧県の人で、字は紀明。護羌校尉・破羌将軍などを歴任し、西羌・東羌の討伐を指揮した。179年、宦官王甫の失脚に連座し、獄中で死去した。
THE WAY OF LIFE
段熲の生き方
病気の兵士を見舞い、自ら傷を包んだと『後漢書』は記す。部下への配慮の記録として、統率を高めに置いています。
張奐への報復を考えながら、張奐の嘆願の書簡を読んで思いとどまったとされる。強硬さだけでは説明できない行動として記録しています。
持ち味と、その裏側
追撃の徹底、長矛・強弩・騎兵を組み合わせた戦術、大規模な討伐の遂行。東羌戦の集計として、斬首38,600余級・軍費44億銭が記される(漢朝側の記録)。一方で、降伏者を辺境の郡県に混住させる政策に反対し、抵抗勢力を徹底的に討つ方針を取った。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜179年(光和2年)。
涼州武威郡姑臧県の人。字は紀明。春秋の共叔段に由来する家系とされ、前漢の西域都護段会宗の従曾孫と記される。
- 孝廉に推挙され、憲陵園丞・陽陵令・遼東属国都尉などを歴任した(『後漢書』本文)。
- 鮮卑討伐で詔書を偽装して有罪となったが、刑を終えて議郎に復帰した(『後漢書』本文)。
- 156年、中郎将として東郭竇・公孫挙らを討伐し、列侯に封じられた(『後漢書』本文)。
- 159年、護羌校尉として焼当・焼何などの羌と戦った。160年には張掖方面から積石山まで40余日の追撃を行った(『後漢書』本文)。
- 161年、涼州刺史郭閎との対立で投獄されたが、後に疑いが晴れて163年に護羌校尉へ復帰した(『後漢書』本文)。
- 168年、東羌討伐で逢義山・奢延沢・霊武谷などで戦った。同年、張奐が恩恵による帰順を上奏したのに対し、段熲は降伏しても軍が去れば再び反乱すると反論した(『後漢書』本文)。
- 東羌戦の結末として、「凡百八十戰,斬三萬八千六百餘級」と集計される。軍費は44億銭。この集計は漢朝側の記録であり、生涯の完全な総計ではない(『後漢書』本文)。
- 司隷校尉のとき、張奐を敦煌へ追放して害そうとしたが、張奐の嘆願の書簡を読んで思いとどまったとされる(『後漢書』本文)。
- 宦官に迎合して王甫と結び、鄭颯・董騰らを不当に処刑したと記される(『後漢書』本文)。
- 179年、太尉から失脚し、宦官王甫の失脚に連座して獄中で鴆毒を飲んだ。家族は辺境へ流された(『後漢書』本文)。
- 『三国志』賈詡伝では、賈詡が段熲の外孫と偽って氐族から逃れたと記される。威名が死後も知られていたことを示す逸話(本文)。
- 裴松之注『呉書』では、并州刺史として若い董卓を公府に推薦したとされる。『傅子』では、金銭で三公の地位を得た一人として挙げられる(裴注)。
- 後世の評価:司馬光『資治通鑑』は、羌を殺戮で制圧する考え方を批判する(後世の評)。『後漢演義』では第五十六・五十七・五十九回に登場する(小説)。
主な出典
『後漢書』巻65 皇甫張段列伝(段熲伝)、『三国志』巻10 賈詡伝、『三国志』巻6 董卓伝の裴松之注(『呉書』『傅子』)、司馬光『資治通鑑』巻56(後世の評)、『後漢演義』(小説)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
鮮卑討伐で詔書を偽装して有罪となったこと、宦官との結託が記録されているため、規律は混沌寄りとしています。
対羌戦の功績と、宦官との結託・金銭による三公就任の記録が併存しています。主な動機を一方に決めることができないため、中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。