CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
段煨
天子に膳を供え、二心を見せなかった華陰の将
段煨は、武威の人で、字を忠明といいます。董卓のもとで中郎将を務め、董卓が長安へ退く際には華陰に屯しました。興平2年(195年)に献帝が東へ戻るときは、物資を携えて迎え、杨定に攻められても十余日にわたって膳を供え続けました。のち安南将軍となり、閿郷侯に封じられています。
董卓の下の中郎将から、献帝を支えた武将へ。
THE WAY OF LIFE
段煨の生き方
天子を迎えた場面で礼を欠かさず、役目を果たし続けた人です。
賈詡の伝では、段煨は賈詡を厚く礼遇しながらも内心では疑っていたとされます。誠実さと警戒心が同居した人物として描けます。
持ち味と、その裏側
民を安んじる実務の堅さと、天子への礼を守り抜く誠実さ。一方で、人を疑う性質が周囲との距離を生みました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建安14年(209年)
武威の人。字は忠明。
- 初平2年(191年)、董卓が長安へ退く際、中郎将として華陰に屯した(『後漢書』董卓伝)。
- 華陰では農事に努め、掠奪をせず、百姓を安んじたとされる(『凉州府志備考』。二次資料)。
- 興平2年(195年)10月、献帝が華陰に着くと、宁辑将軍として物資を携えて迎えた。馬上で揖をして下馬せず、杨定と仲が悪く、杨定らの攻撃を十余日受けたが、膳を供え続けて二心を見せなかった(『後漢書』董卓伝)。
- 賈詡は段煨のもとを去って張綉に身を寄せた。段煨は、賈詡の家族をよく扱った(『三国志』賈詡伝)。
- 建安3年(198年)、裴茂の都督のもとで李傕を討ち、李傕は誅された(『後漢書』孝献帝紀)。安南将軍とされ(『宋書』は安西将軍とする)、閿郷侯に封じられた。
- のち鎮遠将軍・北地太守となり、華山の享庙を修めた(張昶『西岳華山堂閣碑』)。
- のち大鴻臚・光禄大夫に任じられ、建安14年(209年)に寿終した(『三国志』賈詡伝の裴注『献帝紀』)。
主な出典
『後漢書』董卓伝・孝献帝紀、『三国志』魏書 賈詡伝(裴松之注『献帝紀』を含む)、張昶『西岳華山堂閣碑』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
農事を修め、掠奪を避け、天子の食事を支えるなど、秩序を保つ役割を担ったことから、規律は秩序寄りに置いています。
農を修めて民を安んじ、天子に二心を見せなかったことから、動機は他者のため寄りに置いています。ただし、賈詡が「性多疑」と評した猜疑心も残るため、中間の位置です。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。