CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
楊阜
冀城を守って敗れ、同志と馬超を破り、明帝の宮殿造営を棺を叩く覚悟で諫めた魏の直臣
楊阜は、字を義山といい、天水郡冀県の人です。官渡の戦いのころ、「袁公は寛大だが決断できず、曹公は雄才遠略で、必ず大事を成す人だ」と、早くから勝敗を見通しました。建安17年(212年)、馬超に冀城を囲まれると、士大夫と宗族の兵千余人で、正月から8月まで守り抜きます。しかし刺史と太守が降伏したため、楊阜は馬超に報いる機会を待ち、従兄の姜叙らと挙兵して馬超を追い出しました。この戦いで身に五つの傷を負い、同族7人を失ったと伝わります。曹叡の時代には、宮殿の造営や狩りを繰り返し諫め、少府で没しました。経歴は『三国志』魏書 辛毗楊阜高堂隆伝をもとにしています。
字は義山。天水郡冀県の人。袁紹と曹操の勝敗を早くから見通した。馬超に冀城を囲まれて半年以上守ったが、刺史と太守が降伏し、のち従兄の姜叙らと挙兵して馬超を追い出した。身に五つの傷を負い、同族7人を失った。明帝の時には宮殿造営や狩りを繰り返し諫め、少府で没した。
THE WAY OF LIFE
楊阜の生き方
曹洪が薄衣の女に太鼓を踏ませて笑っていると、声を荒げて叱りつけ、席を立った。礼を外れた場には、相手が将軍でも黙っていない人です。
明帝には、「これは棺を叩いて諫めているのです」とまで書いた。信条と挑戦は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
袁紹と曹操を比べて、曹操が勝つと言い切った見通し。冀城で千余人を率いて8か月守り抜いた粘り。母の言葉に押されて動いた従兄を、同志とともに挙兵へ導いた段取り。曹洪や明帝にも、礼を外れたことはその場で正す気骨。武都の民を、混乱なく移住させた信頼。一方で、裴松之は、国が亡んでも臣は独り存するという言葉に、国より自分の憤りが先に出ていると批判した。統率は、戦場での指揮よりも、同志を束ねる力が目立つため中程度に置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳
天水郡冀県(現在の甘粛省甘谷の東南)の人。字は義山。従兄に姜叙、従弟に楊岳・楊謨。孫は楊豹。関内侯。官は少府に至った。
- 天水郡冀県の人で、字は義山。若いころから同郡の尹奉・趙昂とともに名を知られ、3人とも涼州の従事を務めた。
- 建安5年(200年)、官渡の戦いのころ、涼州牧の韋端の使いで許へ行き、安定長史に任じられた。戻ると、関右の諸将が「袁紹と曹操は、どちらが勝つか」と尋ねた。楊阜は「袁公は寛大だが決断できず、謀を好むが決することが少ない。決断しなければ威がなく、決することが少なければ後の事を誤る。いま強くても、大業は成せない。曹公は雄才遠略で、機を決して疑わず、法は一にして兵は精、度外の人まで用い、任じた者は各々力を尽くす。必ず大事を成す人だ」と答えた。
- 長史の職は好まず、官を去った。韋端が太僕に召され、子の韋康が刺史になると、楊阜を別駕に招いた。のち孝廉に挙げられ、丞相府に出仕し、州に戻って参軍事となった。
- 建安16年(211年)、馬超が渭南で敗れて諸戎のもとへ逃れた。曹操が安定まで追ったが、河間で蘇伯が反したため、東へ戻ろうとした。楊阜は使者として曹操の陣におり、「馬超は韓信・黥布のような勇があり、羌・胡の心をよく得ています。大軍が還って厳しく備えなければ、隴上の諸郡は国家のものではなくなります」と進言した。曹操は善しとしたが、撤退は慌ただしく、備えは十分でなかった。
- 建安17年(212年)、馬超が諸戎の首領を率いて隴上の郡県を攻めると、郡県は皆これに応じ、冀城だけが州郡を奉じて守った。馬超は隴右の兵を併せ、張魯も楊昂を遣わして加勢し、合わせて1万余で城を攻めた。楊阜は士大夫と宗族の兵千余人を率い、従弟の楊岳に城上へ偃月営を築かせ、馬超と戦った。
- 正月から8月まで守ったが、救援は来なかった。州は別駕の閻温を水路から送り出して求援したが、馬超に殺された。刺史と太守は色を失い、降伏を考え始めた。楊阜は涙を流して諫め、「私たちは父兄子弟と義で励まし合い、死んでも二心はありません。田単の守りも、これほど堅くはなかった。成功間近の功を捨て、不義の名に陥るのはいけません。私は死んででも守ります」と言って号泣した。刺史と太守は、結局使者を出して降伏し、城門を開いて馬超を迎えた。
- 馬超は楊岳を捕らえ、楊昂に刺史と太守を殺させた。楊阜は、馬超に報いる志を内に抱きながら、機会を待った。しばらくして、妻を亡くしたとして埋葬の休暇を願い、外兄の姜叙が屯していた歴城に立ち寄った。楊阜は幼いころから姜叙の家で育った。姜叙と母に、冀城での出来事を語り、すすり泣いた。
- 姜叙が「なぜそれほど悲しむのか」と尋ねると、楊阜は「城を守り切れず、君が死んでも私は死ねなかった。何の面目で天下に生きよう。馬超は父に背き君に叛き、州将を虐殺した。私だけの責めではなく、一州の士大夫が皆その恥を受けている。君は兵を擁しながら賊を討つ心がない。これでは趙盾が君を弑したと書かれたのと同じだ。馬超は強いが義がなく、不和が多く、図りやすい」と言った。姜叙の母は慨然として、姜叙に楊阜の計に従うよう命じた。
- 母は「韋使君が害されたのは一州の恥で、義山だけの憂いではない。お前の責任でもある。私のことは気にするな。人は誰でも死ぬ。国事のために死ぬのは忠義だ」と述べたと伝わる。計が定まると、楊阜は同郷の姜隠・趙昂・尹奉・姚琼・孔信、武都の李俊・王霊らと連絡し、従弟の楊謨を冀城に遣わして楊岳に伝え、安定の梁寛、南安の趙衢・龐恭らも結んだ。
- 建安17年(212年)9月(『資治通鑑考異』は建安18年とし、他の本紀は建安19年とする)、楊阜と姜叙は卤城で兵を挙げた。馬超が自ら出撃すると、趙衢・梁寛らが楊岳を解き放ち、冀城の門を閉ざして馬超の妻子を討った。馬超は歴城を襲って姜叙の母を捕らえた。母は「父に背いた逆子、君を殺した賊め。天地が長く容れるものか。早く死なぬのか。何の面目で人を見るのか」と罵り、馬超に殺された。
- 楊阜は馬超と戦って身に5つの傷を負い、宗族の兄弟7人が戦死した。馬超は南の張魯のもとへ逃げた。
- 隴右が平定されると、曹操は馬超討伐の功を封じ、侯となった者は11人、楊阜には関内侯が与えられた。楊阜は「君が生きている間に難を防ぐ功がなく、君が亡んでも節に死ぬ効がありません。義としては退けられるべく、法としては誅せられるべきです。馬超もまだ死んでいません。爵禄を受ける資格はありません」と辞退した。曹操は「子貢が賞を辞退したとき、孔子はそれを善を止めるものだと言った。姜叙の母は、楊敞の妻でもこれ以上ではない。賢なるかな、賢なるかな」と返書した。
- 曹操の漢中遠征で益州刺史となり、金城太守、のち武都太守となった。劉備が張飛・馬超を下辯へ送ると、氐の雷定ら7部が呼応した。曹洪が防いで退けた後、酒宴で女芸人に薄絹を着せて太鼓を踏ませ、座が笑った。楊阜は声を荒げて「男女の別は国の大節だ。広座で女の体を露わにさせるとは。桀・紂の乱も、これほどではない」と叱り、衣を振って席を立った。曹洪はすぐに女楽をやめ、楊阜に戻るよう頼み、一座は粛然とした。
- 劉備が漢中を取って下辯に迫ると、曹操は武都が孤立しているため、民を移そうとしたが、吏民が土地を離れたがらないことを恐れた。楊阜は威信があり、前後に氐と民を、京兆・扶風・天水の境へ1万余戸移した。郡治は小槐里へ移り、民は老いも幼きも背負って従った。政は大綱を挙げるだけで、部下も欺くに忍びなかった。
- 曹丕が劉曄らに「武都太守はどんな人か」と尋ねると、皆が「公輔の節がある」と答えた。用いられる前に曹丕が没し、楊阜は郡に十数年おり、のち召されて城門校尉となった。
- 曹叡が刺繍の帽子をかぶり、薄い半袖の縹色の絹をまとっているのを見て、楊阜は「これは礼のどの法服ですか」と問うた。曹叡は黙り、それ以来、礼服でなければ楊阜に会わなかった。将作大匠となった。
- 曹叡が宮室を造り、美女を後宮に集め、しばしば狩りに出かけた秋のこと、大雨と雷が鳥や雀を打ち殺した。楊阜は上疏して、尭・舜・禹・湯・文王・漢の文帝を挙げ、「もし桓帝・霊帝が高祖の法を廃さなければ、太祖が神武でも才を施す所はなく、陛下がこの尊位に就くこともなかった」と述べた。集めた女性を後宮から出すよう願った。曹植が不遇を怨んでいたため、親族の義にも触れた。曹叡は「密表を読み、古の明王をあげて暗政を風刺し、言葉は切実で誠実だ。私はよく反省する」と返した。
- 少府に移ると、太和4年(230年)に曹真が蜀を伐ち、雨で進めなくなった。楊阜は「文王には赤い鳥の吉兆があっても日が傾くまで食事を忘れ、武王は白魚が舟に入っても君臣は顔色を変えた。まして災異はなおさらです。『見可而進、知難而退』は軍の善政です。いたずらに六軍を山谷に困らせるのは、主兵の道ではありません」と述べた。曹叡はすぐに諸軍を呼び戻した。
- 明帝が政治の不便を議論させたとき、楊阜は、治を忘れる、農を害する、本を傷つける、民を乱す、の四つを弊害として挙げた。後宮の人数を御府の吏に尋ねたとき、吏は「秘密です」と答えた。楊阜は怒り、杖百の罰を与えて、「国は九卿を機密の外に置いたことはない。小吏が知る秘密を、九卿に隠すのか」と叱った。明帝はこの話を聞き、ますます楊阜を畏れた。
- 曹叡の愛娘の曹淑が夭折し、曹叡は平原公主を追封して廟を建てた。自ら送葬しようとしたとき、楊阜は「文帝・武宣皇后の葬儀にも陛下は送られませんでした。国を重んじて万一に備えたからです。なぜ幼い子のために送るのですか」と上疏したが、曹叡は聞かなかった。
- 許昌に新宮を営み、洛陽にも宮殿や楼観を造ると、楊阜は長い上疏を奉った。「尭は茅屋に住んで天下が安らぎ、禹は低い宮に住んで民が楽しんだ。夏桀の璇室、殷紂の鹿台、楚の霊王の章華台、秦の始皇の阿房宮は、いずれも身を滅ぼした」と挙げ、「君は元首、臣は股肱で、存亡は一体、生死をともにします。私が死んで国に益があるなら、死んでも生きているのと同じです。私は棺を叩いて諫め、誅を待っています」と記した。曹叡は忠言に動かされ、自ら詔を書いて答えた。
- 朝廷で大事が議されると、楊阜は常に侃々諤々と語り、天下を自分の任と考え、繰り返し諫めた。曹叡が聞かないと辞職を何度も願い出たが、許されなかった。没したとき、家に余財はなく、孫の楊豹が継いだ。
- 劉曄は「阜には公輔の節がある」と評し、陳寿は辛毗と並べて「剛亮公直、正諫して身を顧みず、漢の汲黯の高風に及ぶ」と評した。袁淮は「直士だが、忠臣とはいえない。君の失を人に広めている」と評し、裴松之は「国亡びて臣のみ存するなら、私は言わない、という言葉は、怒りから出ている」と批判した。毛宗崗は、馬超を攻めて曹操を助けたことを義でないとし、馬騰・馬超の父子の側に義があるとした。
- 『三国演義』第64回『孔明定計捉張任 楊阜借兵破馬超』に登場し、馬超との戦いで身に五つの傷を負った。故郷の甘粛省甘谷には楊氏の家祠があり、楊阜と孫の楊豹を指す『両代尚書』の扁額がかかっていた。
主な出典
『三国志』魏書 辛毗楊阜高堂隆伝(百度百科が引く本文)、裴松之注『魏略』、司馬光『資治通鑑考異』、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼と法を重んじ、明帝の服装や後宮の人数にまで筋を通して問いただした行動から、規律は高めに置いています。
主君の仇を討つために馬超へ立ち向かい、のち民の負担を減らそうと君主を諫め続けた行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。