CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
楊洪
「男は戦い、女は運ぶ」と言い切り、漢中への出兵を決めさせた人
楊洪は、蜀の官僚です。若いころは学問を好まなかったものの、陳寿に「忠清款亮、公を憂えること家のごとし」と評されました。劉備が漢中を争って急書で兵を求めたとき、諸葛亮に問われて「男子は戦い、女子は運ぶ。発兵に何の疑いがありましょう」と言い切りました。夷陵の敗戦のあとには、漢嘉太守黄元の反乱を、南安峡口で待ち伏せればよいと見抜いて、捕らえさせます。経歴は『三国志』蜀書「楊洪伝」をもとにしています。同名の明の将軍・楊洪とは別人です。
犍為郡武陽県の人で、字は季休。劉璋の時代に益州の諸郡の役を歴任し、劉備が蜀を定めると、犍為太守の李厳が功曹に任じた。李厳が郡の治所を移そうとしたとき、楊洪は固く諫めて聞かれず、功曹を辞して退いた。李厳は州に推薦して蜀部従事とし、まもなく益州治中従事に転じた。劉備が漢中を争って急書で兵を求めたとき、諸葛亮が楊洪に問うと、「漢中は益州の咽喉、存亡の機会で、漢中がなければ蜀はありません。家門の禍です。今のことは、男子は戦い、女子は運ぶべきで、発兵に何の疑いがありますか」と答えた。蜀郡太守の法正が劉備に従って北へ行っていたため、諸葛亮は上表して楊洪に蜀郡太守を兼ねさせ、諸事を整えたので、そのまま正式に任じられた。劉備が帝位に即き、夷陵で敗れて永安に留まると、漢嘉太守の黄元は諸葛亮に疎まれていたため、劉備の病を聞いて後の報復を恐れ、郡を挙げて反乱し、臨邛城を焼いた。諸葛亮は永安へ見舞いに行って成都は手薄で、黄元はいっそう憚らなかった。楊洪は直ちに太子(劉禅)に啓して親兵を出し、将軍の陳曶・鄭綽に黄元を討たせた。衆議は、黄元が成都を囲めなければ越巂から南中に拠るだろうと言ったが、楊洪は、黄元は凶暴で恩信がなく、そこまではできない、江を東へ下って、劉備が無事なら縛られて死ぬ、異変があれば呉に奔るだけだ、陳曶・鄭綽には南安峡口で遮らせればよい、と言った。そのとおり黄元は生け捕りにされた。223年、関内侯、蜀郡太守・忠節将軍、のち越騎校尉となり、郡を領するのは元のままだった。227年、諸葛亮が漢中に駐屯し、張裔を留府長史にしたいと問うと、楊洪は「張裔は天姿明察で繁雑な事に長けているが、性が公平でなく、専任はできない。向朗を留めるのがよい。向朗は偽りが少ない」と答えた。このことから張裔との友情に溝ができたが、諸葛亮が張裔に与えた書で、楊洪の無私が知られた。228年、在官のまま没した。
THE WAY OF LIFE
楊洪の生き方
劉備が漢中を争っている。急書が成都に届いた。諸葛亮が楊洪に問う。「発兵すべきでしょうか」。楊洪は迷わなかった。「漢中は益州の咽喉です。漢中がなければ、蜀はありません。これは家門の禍です。今のことは、男子は戦い、女子は運ぶ。発兵に、何の疑いがありますか」。
夷陵で劉備が敗れ、永安にいる。黄元が叛き、臨邛が燃えた。諸葛亮は成都にいない。楊洪はすぐ太子に申し上げた。「黄元は凶暴ですが、恩も信もない男です。成都を囲む力はありません。江を下って、主上の無事を願い、縛られて死ぬか、異変があれば呉に逃げるだけです。南安峡口で遮れば、捕らえられます」。その通りになった。
諸葛亮が、留府長史に張裔はどうかと問う。楊洪は答えた。「張裔は明察で、繁雑な事に長けています。ただ性が公平でなく、任せきりにはできません。向朗を残すほうがよいでしょう」。昔からの友の張裔は、それを聞いて、楊洪に不満を抱いた。それでも楊洪は、諸葛亮と話したことを、隠さず張裔に話しに行った。
持ち味と、その裏側
学問は好まなかったが、公の事を、自分の家のことのように憂えた。漢中への出兵、黄元の反乱、長史の人選と、国の存亡にかかわる局面で、先を読み、短い言葉で言い切る力があった。人を見る目もあり、書佐の何祗を推して、数年で広漢太守にした。一方で、友人張裔の子を許さず罰して仲を悪くし、「長史になりたいのでは」と疑われた。公を重んじる直さが、私の縁を傷つけることもあった人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建興6年(228年)
益州犍為郡武陽県の人。字は季休。劉璋、のち劉備に仕えた蜀の官僚。
- 犍為郡武陽県の人で、字は季休。若いころは学問を好まなかったが、忠清款亮で、公の事を憂えること家のようであり、継母にも至孝に仕えた。劉璋の時代、益州の諸郡の役を歴任した。
- 劉備が蜀を定めると、犍為太守の李厳が楊洪を功曹に任じた。李厳が郡の治所の建物を移そうとすると、楊洪は固く諫めたが聞かれず、功曹を辞して退いた。李厳は楊洪を州に推薦し、蜀部従事とした。しばらくして益州治中従事に転じた。
- 劉備が漢中を争って急書で兵を求めたとき、軍師将軍諸葛亮は楊洪に問うた。楊洪は「漢中は益州の咽喉で、存亡の機会です。漢中がなければ蜀はありません。これは家門の禍です。今のことは、男子は戦い、女子は運ぶべきです。発兵に何の疑いがありますか」と答えた。蜀郡太守の法正は劉備に従って北へ行っており、諸葛亮は楊洪に蜀郡太守を兼ねさせるよう上表した。諸事をみな整えたので、そのまま正式の太守となった。
- 劉備が帝位に即いたのち、呉を討って勝てず、永安に留まった。漢嘉太守の黄元は、もともと諸葛亮に好まれておらず、劉備の病を聞いて後の禍を恐れ、郡を挙げて反乱し、臨邛城を焼いた。そのとき諸葛亮は東の永安へ見舞いに行っており、成都は手薄で、黄元はいっそう憚るところがなかった。
- 楊洪はすぐ太子に啓して、親兵を出し、将軍の陳曶・鄭綽に黄元を討たせた。衆議は「黄元が成都を囲めなければ、越巂から南中に拠るだろう」というものだったが、楊洪は言った。「黄元は性が凶暴で、恩信がない。そんなことができようか。ただ江に乗って東へ下り、主上が無事であることを願って縛られて死ぬか、もし異変があれば、呉へ奔って命を乞うだけだ。陳曶・鄭綽に、ただ南安峡口で遮らせればよい」。二人はそのとおりにし、黄元を生け捕りにした。
- 223年、関内侯を賜り、蜀郡太守・忠節将軍に復し、のち越騎校尉となって、郡を領するのは元のままだった。楊洪はもと李厳の功曹で、李厳がまだ犍為に着かないうちに、楊洪はすでに蜀郡太守になっていた。門下の書佐の何祗を迎え、才策と功干があるとして郡吏に挙げると、何祗は数年で広漢太守になり、そのとき楊洪もまだ蜀郡太守にあった。西土の人々は、諸葛亮が時人の器用を尽くせることに感服した。
- 227年、丞相諸葛亮は北上して漢中に住し、張裔を留府長史にしようと思い、楊洪に問うた。楊洪は「張裔は天姿明察で、繁雑な事を治めるのに長け、才は確かに務まります。しかし性が公平でなく、専任はできません。向朗を留めるのがよいでしょう。向朗は情偽が少なく、張裔は身近で従わせてその器能を発揮させれば、事は両つながらよくなります」と答えた。
- はじめ、張裔と楊洪は若いころから親しかった。張裔が呉に流された間、楊洪は張裔の家族のいる郡に臨み、張裔の子の張郁が郡吏の勤めで小さな過ちを犯して罰されたが、特別に許さなかった。のち帰った張裔はこれを聞いて深く恨み、二人の仲は損なわれた。楊洪は諸葛亮が出るのを見て、自ら張裔のもとへ行き、諸葛亮と話したことをすべて告げた。張裔は「あなたが私を留めるという話は、もう済んでいる。明府が止めることはできない」と答えた。当時、楊洪が自分で長史になりたいのだと疑う人もあれば、張裔の恨みを知って、要職に置きたくないのだと疑う人もあった。のち、張裔が司塩校尉の岑述と不和になると、諸葛亮は張裔に宛てて「石交の道は、讐を挙げてでも互いを益し、骨肉を割いてでも誠を明らかにするものだ。私が岑述に任せようとしただけで、君は耐えられないのか」と書いた。論者はこれによって、楊洪に私心がなかったことが分かったという。
- 228年、楊洪は越騎校尉・蜀郡太守の任で没した。楊戯は「越騎ただ忠、歴志自ら祗む、職は内外に、公を念じて私を忘る」と讃え、陳寿は「楊洪は心が公に忠」と記した。成都の武侯祠の文臣廊には、清の道光29年(1849年)に作られた十四文臣の塑像があり、楊洪は十一番目に並ぶ。
- 『三国志演義』では、第65回で劉璋に従って降り、第80回で治中、第91回で諸葛亮が尚書に任じたと記される。しかし『三国志』にあるのは治中までで、尚書になったという記述はない。
主な出典
『三国志』蜀書「霍王向張楊費伝」、『華陽国志』。経歴は 百度百科「楊洪」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
李厳に郡治の移転を固く諫め、聞かれないと功曹を辞しました。友人の子にも法を曲げず、公平を重んじた一方、諸葛亮のもとの官制のなかで職を務め上げた人として、規律は秩序寄りに置いています。
自分の功名のためでなく、蜀という国のために動いた人です。漢中への出兵を押したのも、黄元を捕らえさせたのも、張裔の人事を答えたのも、公の利益のためで、友情を傷つけても意見を曲げませんでした。動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。