CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
楊修
才気が走りすぎて、曹操に警戒された秀才
楊修は、字を徳祖といい、司隷弘農郡華陰県の人で、名門・楊氏の出です。才を認められて曹操の主簿となり、曹植と親しく、よく手紙を交わしました。曹植の後継争いで助言をしたため、曹操に警戒されたと伝わります。建安24年(219年)の漢中遠征で、曹操が「鶏肋」と告げると、楊修はこれを撤退の合図と読んで荷造りを始めました。曹操は撤退を決めたものの、同じ年の秋に楊修を処刑します。『演義』では、「門に活」「一合酥」などの機知の逸話が語られます。経歴は『後漢書』楊震伝(楊修を附す)と『九州春秋』をもとにしています。
名門・楊氏の出で、曹操の主簿を務めた秀才。曹植に近く、「鶏肋」の逸話の年に処刑された。
THE WAY OF LIFE
楊修の生き方
人より先に答えを出し、先回りして動く。楊修は、鋭い構想力と表現力を持つ人物像です。
構想の高さは、鶏肋の意味を読み取った洞察に、規律の低さは、主君の意図を先回りして動いてしまう気質に重ねています。
持ち味と、その裏側
状況の先を読む構想力と、言葉の切れ味。一方で、才を見せすぎて警戒されやすく、立ち回りを誤ると身を危うくします。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
175年〜219年(享年45)
司隷弘農郡華陰県の人。字は徳祖。父は楊彪、高祖父は楊震。
- 名門・楊氏に生まれ、才を認められて曹操に仕え、主簿となった。曹植と親しく、よく手紙を交わした。
- 曹植の後継争いで、曹植のために助言をした。曹操はこれを警戒したと伝わる。母方が袁術の一族に近かったことも、疑いを深めたとされる。
- 219年の漢中遠征で、曹操が「鶏肋」と告げると、楊修はこれを撤退の合図と読み、荷造りを始めた。曹操は撤退を決めたが、同じ年の秋に楊修を処刑した。
- 『三国志演義』では、「鶏肋」のほか「門に活」「一合酥」などの機知の逸話が語られ、才を恐れた曹操に殺される筋書きになっている。
主な出典
『後漢書』楊震伝(楊修を附す)、『三国志』魏書 武帝紀の注に引く『九州春秋』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
主君の意向を先回りし、立場の線を越えて動く姿から、規律はやや混沌寄りとしています。
曹植への肩入れや先回りの助言は、他者のためにも、自分の才を示すためにも見え、主な動機を決めにくい人物です。そのため中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。