CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
杜畿
単車で河東へ乗り込み、衛固・范先を手玉に取って十六年治めた魏の名太守
杜畿は、字を伯侯といい、京兆杜陵の人です。幼くして母を失い、継母に苦しめられても孝行で知られ、継母の柩を携えて帰郷する途中で賊に遭ったときは、「私に金はなく、あるのは棺だけです。射って何の益がありましょう」と述べて見逃されました。荀彧の推薦で河東太守に任じられると、衛固・范先が高幹と通じて陝津を絶つなか、兵を連れず単車で不意に入り、衛固らを内側から切り崩します。以後16年にわたって河東を治め、その成績は「常に天下最」と評されました。黄初5年(224年)、御楼船の試験航行中に風に遭って没しました。経歴は『三国志』魏書 杜畿伝をもとにしています。
字は伯侯。京兆杜陵の人。孤児として継母に苦しめられ、孝で知られた。荀彧に推されて河東太守となり、兵を連れず単車で赴任して、衛固・范先の勢力を内側から切り崩した。16年にわたって河東を治め、『常に天下最』と評された。黄初5年(224年)、御楼船の試験航行中に風に遭って没した。
THE WAY OF LIFE
杜畿の生き方
盗賊に弓を向けられても、棺を守って立ったまま、「私が持っているのは棺だけです」と言った。落ち着きの底が深い人です。
荀彧の別伝は、杜畿を、簡傲で文が少ないと評している。規律は中程度に置いています。
持ち味と、その裏側
兵を入れれば民が巻き込まれる、と先に読んで単車で乗り込む決断力と、衛固・范先に疑われないよう、一つずつ手を打って勢力を削いだ構想。盗賊の前でも動じない胆力。治めた河東では、訴訟を説いて減らし、学校を開き、軍糧を蓄えて曹操の遠征を支えた。劉勲の求めも断る筋の通し方。一方で、荀彧の別伝は、杜畿は簡傲で、文が少ない、とも評している。表現は、記録上は言葉より実績が目立つため中程度に置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
延熹6年(163年)〜黄初5年(224年)
京兆杜陵(現在の陝西省西安)の人。字は伯侯。子は杜恕・杜理・杜寛。孫は杜預。豊楽亭侯。追贈は太僕、諡は戴侯。
- 京兆杜陵の人で、字は伯侯。幼くして母を失い、父が続けて再婚した継母に苦しめられたが、孝行で知られた。20歳で郡の功曹となり、鄭県令を兼ねた。
- 鄭県には囚人が数百人おり、前任の県令が裁かずに溜めていた。杜畿は自ら獄に出向き、軽重を裁いて、ことごとく決し、放した。完璧ではなかったが、郡の人は、若いのに大きな意志があると驚いた。孝廉に挙げられ、漢中府丞となった。
- 天下が乱れると、官を棄てて荊州に客となった。継母が亡くなり、柩を携えて帰郷する途中、同行の人は賊に遭って逃げたが、杜畿は柩があり動けず、立ったままでいた。賊が弓を引くと、杜畿は拱手して、「みなさんは財を求めているのでしょう。私に金はなく、あるのは棺だけです。射って何の益がありましょう」と言った。賊は、無益だとして放した。
- 京兆尹の張時は河東出身の友人で、杜畿を功曹にしたが、不満があった。杜畿は「私は功曹はつとまらないが、あなたの故郷の河東太守なら務まる」とこぼしたという。杜畿は官を去り、許へ出て、侍中の耿紀と夜を徹して時事を語った。声が大きく、隣家に聞こえた。
- 隣家に住んでいた荀彧が聞き耳を立て、耿紀に「国士を進めないで、何の位に居るのか」と質した。杜畿は荀彧に紹介され、意気投合し、荀彧が曹操に推薦した。司空司直となり、のち護羌校尉・使持節・西平太守を領した。
- 建安年間、河東は袁氏と曹操、関西の馬騰・韓遂の勢力が交わる要地だった。太守の王邑は人望があったが、曹操の側近ではなく、曹操は代わりを探した。荀彧に「蕭何・寇恂のように鎮める人を」と求めると、荀彧は「杜畿は、勇は大難に当たるに足り、智は変に応ずべし」と推した。赴任途中の杜畿を、曹操は追わせて、河東太守に改めた。
- 并州刺史の高幹が反乱を起こすと、衛固・范先が、王邑を請う名目で、内実は高幹と通じた。兵数千で陝津を絶ち、杜畿は渡れなかった。曹操は夏侯惇を遣わしたが、杜畿は「河東には3万戸あり、皆が乱を望むのではありません。兵で迫れば、善を望む者に主がなく、衛固に従って死戦します。勝てなければ四隣が応じ、勝っても一郡の民を損なうだけです」と述べた。
- 杜畿は「衛固らはまだ王命を絶っていません。故太守を請うことを名目にしているだけで、新君を害しません。私は単車で不意に入ります。衛固は謀が多く決断がありません。必ず偽って受け入れます。一月、郡にいれば、計で縻ぐ(つなぎ止める)に足ります」と言い、郖津から密かに渡った。
- 范先は杜畿を殺して威を示そうとし、杜畿の目の前で主簿以下30余人を斬ったが、杜畿は挙動が自若だった。衛固は「殺しても益はなく、悪名のみだ。制は我にある」と言い、杜畿を迎え入れた。杜畿は「衛・范は河東の望族だ。私は仰いで成すだけだが、群臣には定まった義がある。成敗を同じくし、大事は共に平議しましょう」と述べ、衛固を都督・丞事・功曹とし、将校吏兵3千余人は范先が督した。衛固らは喜び、油断した。
- 衛固が大規模に徴兵しようとすると、杜畿は「非常の事は衆心を動かすべきでない。財で徐ろに募るのがよい」と説いた。固は従い、数十日かけて募ったが、諸将は応募ばかり多くて兵を出さなかった。さらに「人は家を顧みる。諸将や掾吏を休ませ、急には召すのがよい」と言わせ、衛固らは人心に逆らうのを嫌ってこれにも従った。その結果、善人は外で杜畿を助け、悪人は分散した。
- 白騎が東垣を攻め、高幹が濩沢に入り、上党は長吏を殺し、弘農は太守を捕らえた。衛固らは密かに兵を集めようとしたが、集まらなかった。杜畿は諸県が自分に附くと知り、数十騎を率いて張辟に出て拒守した。吏民が城を挙げて助け、数十日で4千余人が集まった。衛固らは高幹・張晟とともに攻めたが下せず、曹操の大兵が至って、高幹と張晟は敗れ、衛固らは伏誅した。余党は赦し、旧業に戻した。
- 河東は最も早く安定し、損耗も少なかった。杜畿は寛恵で、民と無為の治をした。訴訟には、親ら大義を陳べ、「帰ってよく考えよ。なお尽くせぬ意があれば、再び府に来なさい」と帰した。郷邑の父老は「このような君がいて、なぜ教えに従わないのか」と互いに責め、訴訟は減った。孝子・貞婦・順孫を挙げて徭役を免じ、牛馬や鶏、豚の飼育にも章程を設けた。
- 家々が豊かになると、杜畿は「民は富んだ。教えないではいられない」と言い、冬に兵を整えて武を講じ、学宮を開き、親ら経を執って教えた。楽詳を学官に抜擢し、のち博士に推した。河東は、のち儒者が特に多い郡になった(『魏略』)。
- 韓遂・馬超が反したとき、弘農・馮翊は県邑を挙げて応じたが、河東の民には異心がなかった。曹操が蒲坂に出て渭水を挟んで戦ったとき、軍食はすべて河東が賄い、戦後も20余万斛が余った。曹操は「河東太守杜畿は、孔子のいわゆる『禹には間然するところがない』だ」と述べ、秩を中二千石に増した。漢中遠征では5千人が運搬に従い、「人は必ず一度死ぬ。我らの府君に背いてはならない」と励まし合って、1人も逃げなかった。
- 曹操は「昔、蕭何は関中を定め、寇恂は河内を定めた。卿もその功がある。納言の職を授けようと思ったが、河東は我が股肱の郡で、充実の所であり、天下を制するに足る。しばらく臥鎮してもらいたい」と述べた。杜畿は河東に16年おり、『常に天下最』と記された。
- 平虏将軍の劉勲は曹操の側近で、皆が恐れて追従していた。河東が豊かで棗が名産だと知った劉勲が棗を求めたが、杜畿は婉曲に断った。のち劉勲が謀反で誅され、曹操は杜畿の返書を見て「杜畿は『竈に媚びず』の者だ」と感嘆したという。
- 魏は人口不足のため、各郡に寡婦を集めて、女性の少ない地へ送るよう命じた。多くの太守は、功を示そうと、再婚した女性まで集めた。杜畿は本当の寡婦だけを送ったため、送る数は少なかった。のち趙儼が後任になると、数が増えた。曹丕が杜畿に「以前はお前が送らず、河東に寡婦がいないと思ったが、今は多いのはなぜか」と問うと、杜畿は正色して「私が集めたのは死人の妻、趙儼が集めたのは生者の妻です」と答え、曹丕と周囲の人の顔色が変わったと伝わる。
- 曹丕が魏王になると、杜畿は関内侯、尚書に召された。即位後は豊楽亭侯、司隷校尉を守り、曹丕の呉征伐の際は尚書僕射として留守を統べた。曹丕が許昌に行幸したときも留守をした。詔で御楼船の造営を命じられ、陶河で試験航行中に風に遭って没した(黄初5年、224年、62歳)。
- 曹丕は涙を流し、「昔、冥は官に勤めて水に死に、稷は百穀に勤めて山に死んだ。尚書僕射杜畿は孟津で船を試し、覆没した。忠の至りである。朕は甚だ愍む」と詔し、太僕を追贈し、諡は戴侯、子の杜恕が継いだ。陳寿は「寛猛は克く済し、恵は以て民を康んず」「魏代の名守であろう」と評した。李重は、杜畿・満寵・田豫・胡質らが十年二十年と郡を離れずに務めたことを挙げた。孫に晋の杜預がいる。
主な出典
『三国志』魏書 杜畿伝(百度百科が引く本文)、『魏略』、『荀彧別伝』、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
礼と法を守りつつ、寡婦の徴発のような命令にも、実情に即して従った行動から、規律は中程度に置いています。
兵を入れると民が巻き込まれるとして単車で赴いた判断や、徭役を免じ学校を開いた統治から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。