CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
李恢
弁舌で馬超を降し、南中を平定へ導いた蜀の官僚
李恢は、字を徳昂といい、益州建寧郡兪元県の人です。劉璋に仕えて督郵となり、劉備が益州に入ると、劉備の勝利を見抜いて綿竹で帰順しました。漢中の張魯の配下にいた馬超を説得して、劉備に帰順させる功を立てます。章武元年(221年)に庲降都督となって南中を治め、建興3年(225年)の諸葛亮の南征では、昆明で倍の敵に囲まれながら計略で破り、牂牁郡まで追撃しました。南中の有力者を成都へ移し、牛馬や金銀を納めさせて、軍の資金を充実させたと伝わります。建興9年(231年)に亡くなりました。経歴は『三国志』蜀書 李恢伝・馬超伝をもとにしています。
蜀の官僚。劉備に帰順し、馬超の説得に成功した。庲降都督として南中を治め、諸葛亮の南征で、昆明の敵を計略で破って、牂牁郡まで追撃した。
THE WAY OF LIFE
李恢の生き方
言葉で人を動かし、先を読んで備える。李恢は、強い信条と、説得力のある表現を併せ持つ人物像です。
武力より、言葉と段取りで事を進めた。信条と構想の高さに、その筋の通った弁舌と、計画の確かさを重ねています。
持ち味と、その裏側
相手の立場を見て、納得できる言葉を選ぶ説得力と、南中に根を下ろす地域への目配り。一方で、勝てば進み、負ければ退くという、自分の功を誇らない淡々とした姿は、目立ちにくく、評価されにくい面があります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建興9年(231年)
益州建寧郡兪元県の人。字は徳昂。
- 益州建寧郡の人。劉璋に仕えて督郵となった。親戚の爨習が罪を得たとき、董和が李恢を免職にしなかったことで、李恢は董和に恩義を感じた。
- 劉備が益州に入ると、李恢は劉備の勝利を見抜き、綿竹で劉備と対面して帰順した。
- 劉備に従い、漢中の張魯の配下にいた馬超を説得して、劉備に帰順させる功を立てた。
- 章武元年(221年)、庲降都督・交州刺史となり、南中の地を治めた。
- 建興3年(225年)、諸葛亮の南征に加わった。昆明で、倍の敵に囲まれたが、計略で破り、牂牁郡まで追撃した。この功で安漢将軍に進み、漢興亭侯に封じられた。
- 南中の有力者を、成都へ移して、牛馬や金銀を蜀に納めさせ、軍の資金を充実させたと伝わる。
- 建興7年(229年)、交州が呉に従属すると、建寧太守となった。建興9年(231年)に亡くなった。
- 『三国志演義』では、弁舌で馬超を降した使者として描かれる。民間伝承では、子の李蔚が関羽の娘を妻にしたとされるが、史書にはない。
主な出典
『三国志』蜀書 李恢伝・馬超伝・董和伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
蜀の官職と、与えられた務めの筋を守って動く姿から、規律は秩序寄りとしています。
蜀の務めと、南中の安定の両方を見て動く姿から、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。