CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
朱異
孫綝に呼び出され、「我は呉の忠臣」と叫んで斬られた呉の将
朱異は、字を季文といい、揚州呉郡呉県の人で、朱桓の子です。幼いころ、従父の朱拠に才を試されて、弩を題にした賦を作り、「機に応じて命中し、高い塀の上の隼を獲る」と詠みました。赤烏4年(241年)には、文欽の六安の七つの砦を襲って破り、赤烏13年(250年)には、文欽の偽りの降伏を見抜いて上表しています。建興元年(252年)の東興の戦いでは、水軍を率いて魏軍の浮橋を壊しました。太平2年(257年)、諸葛誕の救援に失敗したあと、孫綝の再出撃の命令に従わず、呼び出され、「我は呉の忠臣だ。何の罪があるのか」と叫びながら鑊里で斬られます。経歴は『三国志』呉書 朱桓伝・三嗣主伝をもとにしています。
字は季文。朱桓の子で、呉郡呉県の人。幼いころから才を知られ、若くして孫権に見込まれた。魏の文欽の七つの砦を破り、偽りの降伏も見抜き、東興の戦いでは水軍を率いた。太平2年(257年)、諸葛誕の救援に失敗し、孫綝の再出撃の命令を拒んで、呼び出されて斬られた。
THE WAY OF LIFE
朱異の生き方
若くして孫権に「胆の据わった男」と評された。文欽の偽りの降伏も見抜いた、勘の鋭い将です。
孫綝の命令を、無理だと拒んで呼び出された。陸抗が止めても向かった率直さが、最期を決めました。
持ち味と、その裏側
魏の文欽の七つの砦を2千の兵で破り、偽りの降伏を見抜いた判断力。東興の戦いで浮橋を壊した水軍の指揮。諸葛恪や孫綝の無理な作戦に、率直に反対する胆力。一方で、諸葛恪に退けられると書を地に投げて罵り、孫綝の呼び出しに陸抗の制止も聞かず応じる、感情で動く面もあった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜太平2年9月(257年9月26日)
揚州呉郡呉県の人。字は季文。呉郡の名門朱氏の出。父は朱桓、従父は朱拠。嘉興侯。
- 揚州呉郡呉県の人で、字は季文。呉郡の四姓の一つ、朱氏の出身。父は朱桓、従父は朱拠。生年は伝わらない。
- 幼いころ、張純・張儼とともに朱拠を訪ねた。朱拠は三人の才名を聞いて試そうとし、「それぞれ一つの物を賦に作ってから、座ってほしい」と言った。張儼は犬を、張純は席を賦に作り、朱異は弩を、「南岳の幹、鍾山の銅、機に応じて命中し、高い塀の上の隼を獲る」と作った(裴松之注『文士伝』)。三人は目に入った物を賦にして、朱拠は大いに喜んだ。『全三国文』に「賦弩」が残る。
- 成長すると、父の功で郎となった。嘉禾6年(237年)、朱桓が、進言した佐軍を刺し殺し、狂ったふりをして建業へ療養に出ると、孫権は朱桓の功を惜しんで罪に問わず、朱異に部曲を預けた。騎都尉となり、父の兵を率いた。赤烏元年(238年)に朱桓が62歳で没し、朱異は嘉興侯を継いだ。
- 赤烏4年(241年)、朱然に従って魏の樊城を攻め、策を立てて外郭を破り、偏将軍となった。魏の廬江太守・文欽が六安に砦を多く置き、呉の叛徒を誘っていたため、朱異は自ら手下2千を率いて、文欽の七つの要道の砦を襲って破り、数百人を斬って揚武将軍となった。
- 孫権は朱異と戦を論じ、その受け答えが意にかなった。孫権は朱拠に「季文は胆が据わっていると前から知っていたが、会ってみると聞いた以上だ」と言ったと伝わる。
- 赤烏13年(250年)、文欽が偽って降伏を申し出て、朱異に密書を送り、自ら迎えに来るよう求めた。朱異は書を孫権に上表し、偽りだから迎えるべきでないと述べた。孫権は「策を設けて網にかけ、大軍で防げばよい」と詔し、呂拠に2万を預けて朱異と力を合わせさせた。国境へ進むと、文欽は降らず、攻めても来なかった。
- 建興元年(252年)、鎮南将軍となった。魏が胡遵・諸葛誕らを東興に出すと、朱異は水軍を率いて魏軍の浮橋を壊し、魏軍は橋が折れて多く溺れ、大敗した。
- 諸葛恪に従って新城を囲んだが、落ちなかった。朱異らは、すぐ豫章に戻って石頭城を襲えば数日で落とせると言ったが、諸葛恪は書を送って諭した。朱異は書を地に投げて「私の計は用いず、傒子の言を用いるか」と言い、諸葛恪は大いに怒って、兵を取り上げて罷免し、建業へ戻した。
- 五鳳2年(255年)、安豊を襲って落とせずに戻った。太平元年(256年)、孫峻が文欽の計を用い、朱異・文欽・呂拠・劉纂・唐咨らを江都から淮・泗へ入らせて、青・徐州をうかがおうとした。まもなく孫峻が没し、従弟の孫綝が実権を握ると、呂拠が滕胤と謀って孫綝を除こうとして敗れた。
- 太平2年(257年)5月、魏の諸葛誕が寿春で反乱を起こし、子の諸葛靚や長史の呉綱らを人質に送って、呉に救援を求めた。6月、文欽・唐咨・全端らが3万で寿春に入った。夏口督の孫壱は滕胤・呂拠の妻の兄で、孫綝は朱異に虎林から夏口を襲わせ、孫壱は部曲を連れて魏へ逃れた。
- 孫綝は朱異を大都督・仮節とし、3万を率いて安豊に屯させた。魏の兗州刺史・州泰が陽淵で戦って朱異は敗れ、追撃を受けて死傷2千を出した。7月、孫綝が鑊里に進むと、朱異は夏口から来て前部督となり、丁奉・黎斐らと5万を率いて寿春の包囲を解こうとした。
- 朱異は輜重を都陸に置き、黎浆に陣を張った。任度・張震らに勇士6千を募らせ、夜に浮橋で淮水を渡り、半月形の陣を築こうとしたが、魏の監軍・石苞と州泰に破られ、高い所へ退いた。さらに車箱の攻城器で五木城を囲んだが、これも石苞・州泰に破られた。胡烈が奇兵で都陸を襲い、兵糧・輜重を焼いた。呉軍は飢え、葛の葉を食べるほどになった。
- 8月、朱異は、軍の食糧が尽きたとして兵を引いた。孫綝は大いに怒り、さらに3万を預けて死戦を命じたが、朱異は従わなかった。孫綝は朱異を呼んだ。朱異は行くと決め、陸抗に「子通(孫綝)は家の者だ。何を疑うことがあろう」と言った。
- 朱異が着くと、孫綝は力士に、座上で朱異を捕らえさせた。朱異は「我は呉の忠臣だ。何の罪があるのか」と言い、孫綝は鑊里で引き殺すよう命じた。九月己巳(9月26日)のことと『三国志』三嗣主伝は記す。百度百科は「拉殺」と記し、日本語版は「絞め殺された」と伝え、殺し方の記述に差がある。
- 孫権は朱異を「胆の据わった男」と評した。陳寿は、「呂拠・朱異・施績はみな将の才があり、よく家を継いだ。範・桓が険を越えて吉に終われたのに、呂拠・朱異は咎がなくて災いに遭ったのは、遇った時が違ったからだ」と述べた。郝経は「談笑して死に就いた壮士」と評した。
- 『宋書』天文志には、魏の嘉平4年(252年)3月に、「呉将の朱然・朱異が寇となり、諸葛誕が破った」とある。しかし、朱然は赤烏12年(249年)に没しており、『三国志』に、この戦は書かれていない。百度百科は、この戦の真実性は考証を要するとする。『三国志演義』では、朱異は諸葛誕の乱で先鋒となり、王基と戦って、三合も持たず敗走し、孫綝に斬られる。
主な出典
『三国志』呉志 朱桓伝・三嗣主伝、裴松之注(『文士伝』『呉書』)、日本語版(サードペディア経由)Wikipedia、百度百科の引用
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
上官の無理な命令に率直に反対するが、命令の場には従って出向く行動から、規律は中間に置いています。
危うい命令にも筋を通し、忠臣として最期まで叫んだ行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。