三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

朱異

孫綝に呼び出され、「我は呉の忠臣」と叫んで斬られた呉の将

朱異は、字を季文といい、揚州呉郡呉県の人で、朱桓の子です。幼いころ、従父の朱拠に才を試されて、弩を題にした賦を作り、「機に応じて命中し、高い塀の上の隼を獲る」と詠みました。赤烏4年(241年)には、文欽の六安の七つの砦を襲って破り、赤烏13年(250年)には、文欽の偽りの降伏を見抜いて上表しています。建興元年(252年)の東興の戦いでは、水軍を率いて魏軍の浮橋を壊しました。太平2年(257年)、諸葛誕の救援に失敗したあと、孫綝の再出撃の命令に従わず、呼び出され、「我は呉の忠臣だ。何の罪があるのか」と叫びながら鑊里で斬られます。経歴は『三国志』呉書 朱桓伝・三嗣主伝をもとにしています。

字は季文。朱桓の子で、呉郡呉県の人。幼いころから才を知られ、若くして孫権に見込まれた。魏の文欽の七つの砦を破り、偽りの降伏も見抜き、東興の戦いでは水軍を率いた。太平2年(257年)、諸葛誕の救援に失敗し、孫綝の再出撃の命令を拒んで、呼び出されて斬られた。

THE WAY OF LIFE

朱異の生き方

若くして孫権に「胆の据わった男」と評された。文欽の偽りの降伏も見抜いた、勘の鋭い将です。

孫綝の命令を、無理だと拒んで呼び出された。陸抗が止めても向かった率直さが、最期を決めました。

持ち味と、その裏側

魏の文欽の七つの砦を2千の兵で破り、偽りの降伏を見抜いた判断力。東興の戦いで浮橋を壊した水軍の指揮。諸葛恪や孫綝の無理な作戦に、率直に反対する胆力。一方で、諸葛恪に退けられると書を地に投げて罵り、孫綝の呼び出しに陸抗の制止も聞かず応じる、感情で動く面もあった。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生年未詳〜太平2年9月(257年9月26日)

揚州呉郡呉県の人。字は季文。呉郡の名門朱氏の出。父は朱桓、従父は朱拠。嘉興侯。

  1. 揚州呉郡呉県の人で、字は季文。呉郡の四姓の一つ、朱氏の出身。父は朱桓、従父は朱拠。生年は伝わらない。
  2. 幼いころ、張純・張儼とともに朱拠を訪ねた。朱拠は三人の才名を聞いて試そうとし、「それぞれ一つの物を賦に作ってから、座ってほしい」と言った。張儼は犬を、張純は席を賦に作り、朱異は弩を、「南岳の幹、鍾山の銅、機に応じて命中し、高い塀の上の隼を獲る」と作った(裴松之注『文士伝』)。三人は目に入った物を賦にして、朱拠は大いに喜んだ。『全三国文』に「賦弩」が残る。
  3. 成長すると、父の功で郎となった。嘉禾6年(237年)、朱桓が、進言した佐軍を刺し殺し、狂ったふりをして建業へ療養に出ると、孫権は朱桓の功を惜しんで罪に問わず、朱異に部曲を預けた。騎都尉となり、父の兵を率いた。赤烏元年(238年)に朱桓が62歳で没し、朱異は嘉興侯を継いだ。
  4. 赤烏4年(241年)、朱然に従って魏の樊城を攻め、策を立てて外郭を破り、偏将軍となった。魏の廬江太守・文欽が六安に砦を多く置き、呉の叛徒を誘っていたため、朱異は自ら手下2千を率いて、文欽の七つの要道の砦を襲って破り、数百人を斬って揚武将軍となった。
  5. 孫権は朱異と戦を論じ、その受け答えが意にかなった。孫権は朱拠に「季文は胆が据わっていると前から知っていたが、会ってみると聞いた以上だ」と言ったと伝わる。
  6. 赤烏13年(250年)、文欽が偽って降伏を申し出て、朱異に密書を送り、自ら迎えに来るよう求めた。朱異は書を孫権に上表し、偽りだから迎えるべきでないと述べた。孫権は「策を設けて網にかけ、大軍で防げばよい」と詔し、呂拠に2万を預けて朱異と力を合わせさせた。国境へ進むと、文欽は降らず、攻めても来なかった。
  7. 建興元年(252年)、鎮南将軍となった。魏が胡遵・諸葛誕らを東興に出すと、朱異は水軍を率いて魏軍の浮橋を壊し、魏軍は橋が折れて多く溺れ、大敗した。
  8. 諸葛恪に従って新城を囲んだが、落ちなかった。朱異らは、すぐ豫章に戻って石頭城を襲えば数日で落とせると言ったが、諸葛恪は書を送って諭した。朱異は書を地に投げて「私の計は用いず、傒子の言を用いるか」と言い、諸葛恪は大いに怒って、兵を取り上げて罷免し、建業へ戻した。
  9. 五鳳2年(255年)、安豊を襲って落とせずに戻った。太平元年(256年)、孫峻が文欽の計を用い、朱異・文欽・呂拠・劉纂・唐咨らを江都から淮・泗へ入らせて、青・徐州をうかがおうとした。まもなく孫峻が没し、従弟の孫綝が実権を握ると、呂拠が滕胤と謀って孫綝を除こうとして敗れた。
  10. 太平2年(257年)5月、魏の諸葛誕が寿春で反乱を起こし、子の諸葛靚や長史の呉綱らを人質に送って、呉に救援を求めた。6月、文欽・唐咨・全端らが3万で寿春に入った。夏口督の孫壱は滕胤・呂拠の妻の兄で、孫綝は朱異に虎林から夏口を襲わせ、孫壱は部曲を連れて魏へ逃れた。
  11. 孫綝は朱異を大都督・仮節とし、3万を率いて安豊に屯させた。魏の兗州刺史・州泰が陽淵で戦って朱異は敗れ、追撃を受けて死傷2千を出した。7月、孫綝が鑊里に進むと、朱異は夏口から来て前部督となり、丁奉・黎斐らと5万を率いて寿春の包囲を解こうとした。
  12. 朱異は輜重を都陸に置き、黎浆に陣を張った。任度・張震らに勇士6千を募らせ、夜に浮橋で淮水を渡り、半月形の陣を築こうとしたが、魏の監軍・石苞と州泰に破られ、高い所へ退いた。さらに車箱の攻城器で五木城を囲んだが、これも石苞・州泰に破られた。胡烈が奇兵で都陸を襲い、兵糧・輜重を焼いた。呉軍は飢え、葛の葉を食べるほどになった。
  13. 8月、朱異は、軍の食糧が尽きたとして兵を引いた。孫綝は大いに怒り、さらに3万を預けて死戦を命じたが、朱異は従わなかった。孫綝は朱異を呼んだ。朱異は行くと決め、陸抗に「子通(孫綝)は家の者だ。何を疑うことがあろう」と言った。
  14. 朱異が着くと、孫綝は力士に、座上で朱異を捕らえさせた。朱異は「我は呉の忠臣だ。何の罪があるのか」と言い、孫綝は鑊里で引き殺すよう命じた。九月己巳(9月26日)のことと『三国志』三嗣主伝は記す。百度百科は「拉殺」と記し、日本語版は「絞め殺された」と伝え、殺し方の記述に差がある。
  15. 孫権は朱異を「胆の据わった男」と評した。陳寿は、「呂拠・朱異・施績はみな将の才があり、よく家を継いだ。範・桓が険を越えて吉に終われたのに、呂拠・朱異は咎がなくて災いに遭ったのは、遇った時が違ったからだ」と述べた。郝経は「談笑して死に就いた壮士」と評した。
  16. 『宋書』天文志には、魏の嘉平4年(252年)3月に、「呉将の朱然・朱異が寇となり、諸葛誕が破った」とある。しかし、朱然は赤烏12年(249年)に没しており、『三国志』に、この戦は書かれていない。百度百科は、この戦の真実性は考証を要するとする。『三国志演義』では、朱異は諸葛誕の乱で先鋒となり、王基と戦って、三合も持たず敗走し、孫綝に斬られる。

主な出典
『三国志』呉志 朱桓伝・三嗣主伝、裴松之注(『文士伝』『呉書』)、日本語版(サードペディア経由)Wikipedia、百度百科の引用

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:中立・善

上官の無理な命令に率直に反対するが、命令の場には従って出向く行動から、規律は中間に置いています。

危うい命令にも筋を通し、忠臣として最期まで叫んだ行動から、動機は他者寄りの側に置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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