CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
朱治
孫堅から孫権まで、四代の呉の主に仕えた古参
朱治は、字を君理といい、丹陽郡故鄣県の人です。県の吏から身を起こし、孝行と謙虚さで知られ、孫堅に従って長沙・零陵・桂陽の反乱の討伐や董卓との戦いに加わりました。孫堅が戦死すると孫策に仕え、袁術のもとでは先がないと見て、呉へ戻って自立するよう勧めたと伝わります。孫策の没後も呉に留まって孫権に仕え、呉郡太守を長く務めました。黄武元年(222年)に毗陵侯に封じられ、孫権は王に準じる賜り物を与えましたが、朱治は受けるのをためらったといいます。跡継ぎがなく、甥の朱然を養子にしました。黄武3年(224年)、六十八歳で亡くなっています。経歴は『三国志』呉書 朱治伝をもとにしています。
呉の宿将。丹陽郡故鄣の人。孫堅に従って戦い、孫策に呉へ戻って自立するよう勧めた。孫権の代には呉郡太守を長く務め、毗陵侯に封じられた。朱然の養父。
THE WAY OF LIFE
朱治の生き方
主君が代わっても、孫家から離れなかった。朱治は、長く仕えることで信頼を積んだ人物像です。
派手に先頭へ出る場面は少なく、支え役が中心だった。規律の高さと、挑戦の低さに、その堅実さを重ねています。
持ち味と、その裏側
孫堅・孫策・孫権の三代を通じて仕え続けた忠誠と、呉郡という本拠を長く治めた堅実さ。一方で、自ら新しい道を切り開く場面は記録に乏しく、守り役としての色合いが強い人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
永寿2年(156年)〜黄武3年(224年)
丹陽郡故鄣県の人。字は君理。養子に朱然(甥)。
- 丹陽郡故鄣県の人。県の吏から身を起こし、孝行と謙虚さで知られたと伝わる。のち州郡の官を経て、孫堅に従った。
- 中平5年(188年)ごろ、孫堅のもとで司馬となり、長沙・零陵・桂陽の反乱の討伐に加わった。董卓との戦いでも功があり、都尉・校尉に進んだ。徐州では、陶謙を助けて黄巾と戦った。
- 初平2年(191年)に孫堅が戦死したあと、朱治は孫策に仕えた。袁術のもとでは先がないと見て、孫策に、呉へ戻って自立するよう勧めたと伝わる。
- その後は呉郡太守を務め、孫策の没後(200年)も呉に留まって孫権に仕え、周瑜とともに支えた。建安7年(202年)には、呉郡太守・扶義将軍となり、いくつかの県を食邑として与えられて、半ば隠居の形になった。
- 建安13年(208年)には、孫賁が曹操に子を人質に出そうとするのを、説得して思いとどまらせた。
- 黄武元年(222年)、毗陵侯に封じられた。孫権は金印などの王に準じる賜り物を与え、食邑を四県に広げたが、朱治は受けるのをためらったという。黄武2年(223年)に安国将軍となった。
- 跡継ぎのなかった朱治は、甥の朱然を養子に迎えた。
- 孫権は朱治を深く敬い、呉王になってからは、都まで迎えて宴を開いたと伝わる。黄武3年(224年)、六十八歳で亡くなった。
主な出典
『三国志』呉書 朱治伝(朱治朱然呂範朱桓伝)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
孫家への仕えかたが一貫し、礼を重んじた姿から、規律は秩序寄りとしています。
一貫して孫家に仕え続けた記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。