CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
朱建平
的中を重ねた予言で、曹魏の宮廷に召された相術の名人
朱建平は、沛国の人で、相術に長け、街や路地で人々の相を見て評判を得ました。曹操が魏公となると召されて郎官となり、曹丕が五官将だったときには、宴の賓客の相を見て、曹丕には八十歳の寿命と四十歳の厄を告げます。『三国志』は、その予言が夏侯威・応璩・曹彪らにも的中したと記します。曹丕の乗馬を「今日死ぬ」と言い当てた話も伝わります。黄初7年(226年)、曹丕は四十歳で病に倒れ、「八十歳の予言は昼夜を合わせた計算だった」と言って没しました。相馬にも長け、『原君書』を著したと伝わります。経歴は『三国志』魏書 方技伝をもとにしています。
沛国の人。相術に長け、街や路地で人々の相を見て評判を得た。曹操が魏公となると召されて郎官となる。曹丕が五官将の時、宴の賓客の相を見て、曹丕には八十歳の寿命と四十歳の厄を告げた。『三国志』は、その予言が夏侯威・応璩・曹彪らにも的中したと記す。相馬にも長け、『原君書』を著したと伝わる。黄初年間に没した。
THE WAY OF LIFE
朱建平の生き方
曹丕には「八十歳まで生きるが、四十歳に小さな厄がある」と告げた。曹丕は四十歳で没し、臨終に「占いは本当に正確だった」と語ったと伝わる。夏侯威・応璩・曹彪についても予言は的中したと記録される。ただし、王昶・程喜・王肅については実際と食い違いがあったと記す。王肅は「七十余歳まで生き、三公に至る」と言われたが届かず没した。
相馬にも長け、曹丕が乗ろうとした馬を「今日死ぬ」と言い当てた。荀攸と鍾繇を相した際には、「荀攸は若いが、後事は鍾繇に託すことになる」と告げた。鍾繇が戯れに「ならばお前の妾の阿騖を、嫁に出すだけだな」と返したところ、荀攸は先に亡くなり、鍾繇は荀攸の家を切り盛りして阿騖の嫁ぎ先を探すことになった。鍾繇は友人への手紙で、戯言が当たったことに驚き、朱建平の術は唐挙や許負にも勝ると讃えた。陳寿は朱建平の相術を、華佗・管輅らと並ぶ絶技として評価する。『三国志演義』には登場しない。
持ち味と、その裏側
予言を年齢と災厄の形で明快に示す語り口。相手ごとに異なる助言を与えた具体性。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜黄初年間(220〜226年頃)
沛国(現在の安徽省)
- 生年不詳: 沛国の人。街頭で人の相を見て評判を得る(『三国志』)。
- 曹操が魏公となった頃: 召されて郎官となる(『三国志』)。
- 曹丕が五官将の時: 宴で賓客の相を見て、曹丕には八十歳の寿命と四十歳の厄を告げる。夏侯威・応璩・曹彪にも予言する(『三国志』)。
- 荀攸の没後(214年): 荀攸と鍾繇を相したとき、朱建平は「荀攸は若いが、後事は鍾繇に託すことになる」と告げていた。鍾繇は戯れに「ならばお前の妾の阿騖を嫁に出すだけだ」と返したが、荀攸は先に亡くなる。鍾繇は幼い子を残した荀攸の家を取り仕切り、阿騖の嫁ぎ先を探した。手紙で「戯言が当たった」と驚き、朱建平を唐挙・許負にも勝ると讃えた(『三国志』)。
- 時期不詳: 曹丕の乗馬を「今日死ぬ」と言い当てる。馬が曹丕の膝を噛み、曹丕はその馬を殺す(『三国志』)。
- 黄初七年(226年): 曹丕が四十歳で病に倒れ、「八十歳の予言は昼夜を合わせた計算だった」と言って没する(『三国志』)。
- 黄初年間: 没する。『原君書』を著したと伝わる(『三国志』)。
主な出典
『三国志』魏書 方技伝第二十九(朱建平伝、裴松之注を含む)。『三国志演義』には登場しない。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
規律4のため秩序。朝廷の召しに応じ、郎官として宮中に仕えた。
予言で相手に備えを促すことを重んじた。相手を害する意図は記録されず、一方で的中を自らの名声に結びつけた面もある。動機は善にも悪にも振れないため、中立として扱います。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。