CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
朱儁
黄巾を破り、孫堅を引き立てた、剛直な後漢の名将
朱儁は、字を公偉といい、揚州会稽郡上虞県の人です。幼くして父を亡くし、母の内職で育ち、孝行と義侠で知られました。光和元年(178年)に交州刺史に抜擢され、故郷で5千の兵を集めて交阯の乱を平定します。中平元年(184年)の黄巾の乱では、皇甫嵩とともに各地を転戦し、同郷の孫堅を従軍に召し出しました。董卓が専横を振るうと、遷都に反対し、太僕への任命も拒みます。董卓の死後は太尉・録尚書事となりましたが、李傕と郭汜の争いを仲裁しようとして郭汜に人質にされ、剛直な性格から怒りのあまり病を発して、興平2年(195年)に亡くなりました。経歴は『後漢書』朱儁列伝と『三国志』呉書 孫堅伝をもとにしています。
会稽郡上虞県の人。孝行と義侠で知られ、交阯の乱を鎮めた。黄巾の乱では、皇甫嵩とともに各地を転戦し、同郷の孫堅を引き立てた。董卓に逆らい、のちに李傕・郭汜の争いに巻き込まれて亡くなった。
THE WAY OF LIFE
朱儁の生き方
恩義を重んじ、困難があっても、まっすぐに進む。朱儁は、決断と信条、統率の高い人物像です。
立場の上下に左右されず、言うべきことを言う。決断・信条・統率の高さと、規律・表現の低さに、その剛直さと、口数の少なさを重ねています。
持ち味と、その裏側
孝行で義に厚く、乱戦でも兵をまとめる統率力。交阯の乱では、故郷で5千の兵を集めて、首謀者を斬って平定した。一方で、董卓や李傕に対して、剛直さを隠さなかったため、危うい立場に立ちました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜興平2年(195年)
揚州会稽郡上虞県の人。字は公偉。幼くして父を亡くし、母の内職で育った。
- 孝行と義侠で知られ、財に執着しなかったと伝わる。
- 同郷の周規を助けるため、母の財産を無断で持ち出したが、「小さな損が、のちの大きな益になる」と答えたという。
- 太守の尹端が死罪の危機に陥ると、ひそかに都へ上り、賄賂を贈って上奏文を書き改めさせ、減刑に成功した。
- 孝廉に推挙されて蘭陵の令となり、光和元年(178年)、交州刺史に抜擢された。故郷で5千の兵を集めて、交阯の乱の首謀者の梁龍を斬り、乱を平定した。
- 中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、右中郎将として、皇甫嵩とともに各地を転戦した。同郷の孫堅を従軍に召し出した。潁川や宛で、趙弘・韓忠らを破り、車騎将軍に進んだ。
- 董卓が専横を振るうと、遷都に反対し、太僕への任命も拒んだ。反董卓の勢力と連絡を取り、のちに荊州へ逃れた。
- 董卓の死後、太尉・録尚書事となった。のちに、李傕と郭汜の争いを仲裁しようとして、郭汜に人質にされた。剛直な性格から、怒りのあまり病を発して、興平2年(195年)に亡くなった。
主な出典
『後漢書』朱儁列伝、『三国志』呉書 孫破虜討逆伝(孫堅)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
官の命令には従いつつ、必要なら朝廷の方針にも逆らった姿から、規律は裁量寄りとしています。
恩人を助け、困窮する者に財を分けた若い頃の逸話から、動機は他者寄りに置いています。国の乱を鎮める働きも、その延長にあります。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。