CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹髦
学を好み、司馬昭に兵を挙げた若き皇帝
曹髦は、魏の第4代皇帝です。曹丕の孫で、14歳で即位し、司馬昭が実権を握るなかで学問を好み、20歳で兵を挙げて命を落としました。『三国志』本文は最期を「卒」の一語で済ませ、有名な場面は裴松之注が引く『漢晋春秋』などに拠ります。ここでの人物像は記録からの読みで、本人の内心が書かれているわけではありません。
曹丕の孫、東海定王曹霖の子。曹芳が廃されたのち14歳で即位し、甘露5年(260年)、司馬昭を討とうとして亡くなった。
THE WAY OF LIFE
曹髦の生き方
太学で博士に『易』『尚書』『礼記』を問うた。本文に問答が載る。学問と問答に長けた像は、本文の記述に基づくもので、表現の高さの根拠です。
司馬氏の権限が積み上がる治世のなかで、最後は少数で兵を挙げた。挑戦の高さは行動に基づく読みで、勝算の見えにくい動きだったことが、構想と統率の低さにつながっています。
持ち味と、その裏側
若くして学問を好み、博士にも問い返す聡明さ。劣勢でも自ら動いた決意。一方で陳寿は「軽躁忿肆(軽はずみで怒りに任せた)」と評し、自ら大禍を招いたとも書きます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
正始3年(242年)〜甘露5年(260年)
曹丕の孫、東海定王曹霖の子。字は彦士。
- 字は彦士。曹丕の孫で、東海定王曹霖の子(『三国志』三少帝紀・武文世王公伝)。正始5年(244年)、高貴郷公に封じられた。母の名は、確認した原文には見えない。
- 生年は本文に書かれていない。裴松之注に引く「帝『集』」に正始3年(242年)9月の生まれとあり、これに従う。
- 正元元年(254年)、司馬師が曹芳を廃したのち、皇太后の令が「高貴郷公髦は大成の量(大成する器)あり、明帝の嗣とせよ」と定めて、14歳で即位した。洛陽に着き、群臣の拝礼に答拝して「吾は人臣なり」と言い、旧来の乗輿での入城を勧められても「皇太后に召された身で、どうすべきか分からない」と歩いて入った(本文)。
- 本文は「少くして学を好み、夙成す」と記す。裴松之注に引く『魏氏春秋』は「神明爽儁、徳音宣朗」とし、鍾会が「才は陳思(曹植)に同じく、武は太祖に類す」と評したと伝える。これは本文ではなく注の引用である。
- 本文は太学での問答を詳しく載せる。『易』は淳于俊に、『尚書』は庾峻に、『礼記』は馬照に問うている。
- 裴松之注に引く『漢晋春秋』は、黄龍が井戸にたびたび現れたとき、「龍は君の徳であるのに、天にも田にもおらず、しばしば井に屈している。吉兆ではない」と言い、「潜龍」の詩を作って自らを戒めたと伝える。
- 在位中、司馬氏の権限は制度として積み上がった。即位の年に司馬師へ黄鉞・入朝不趨・奏事不名・剣履上殿が与えられ、正元2年に毌丘倹・文欽の乱を司馬師が討つと、師は許昌で死に、司馬昭が大将軍・録尚書事となった。甘露3年には諸葛誕の乱を鎮め、司馬昭は相国・晋公・九錫を加えられた(本文)。
- 毌丘倹の乱について、『世語』は「大将軍が天子を奉じて征した」と書くが、裴松之は「諸書を調べても、そのような事はない」と退けている。
- 甘露5年(260年)5月、本文は「己丑、高貴郷公卒す、年二十」と書くだけである。
- 裴松之注に引く『漢晋春秋』は、曹髦が王沈・王経・王業を呼び、「司馬昭の心は、路人(道行く人)も知っている。座して廃辱を受けるわけにはいかない。今日、卿らと自ら出て討つ」と言ったと伝える。王経が諫めると、「行くことは決めた。たとえ死んでも、何を恐れよう」と答えた。沈・業が司馬昭に知らせ、賈充らが迎え撃ち、成済が刺して、刃は背に出たという。
- これらの場面は本文にはなく、注に引かれる書の間でも細部が異なる。『世語』は王沈・王業が走って告げ、王経は正直で出なかったとし、『晋諸公賛』も王経は従わなかったとする。『魏末伝』は賈充が成済に「殺せ」と言ったと、より直接に書く。誰がどこまで命じたかは、書ごとに差がある。
- 王経は、事件のとき尚書だった。注に引く『漢晋春秋』では、曹髦に呼ばれた三人のうち王経が、魯の昭公が季氏を除けず国を去った例を挙げ、司馬氏の権力は久しく固まり、宮中の兵も少ないとして、「禍は測れない、十分に慎重に」と諫めた。曹髦が決意を変えないと、王沈・王業は司馬昭に知らせた。『世語』は、王経は正直で密告に出向かなかったとし、『晋諸公賛』は、王沈らに誘われても「あなた方だけで行きなさい」と従わなかったとする。三書とも、王経が挙兵に加わった、あるいは密告した、とは記していない。
- 本文に載る皇太后の令は、王経を「凶逆無状」とし、王経とその家族を廷尉に送るよう命じた。王経は曹髦の死に連座して処刑された(巻9・本文)。注に引く『世語』は、王経が東市で処刑され、かつて登用した向雄が泣き、市の人々が感動したと伝える。同じく注に引く『漢晋春秋』は、捕えられた王経に、母が表情を変えず笑って「人は誰でも死ぬもの」と言い、出世を止めようとしたのは息子が死に場所を得られないことを恐れたからで、ここで共に終わることに悔いはない、と語ったとする。令は事件後の公式の命令で、王経の反逆を独立に立証するものではない。
- のち、晋の武帝は泰始元年の詔で、王経について、刑には陥ったが、志を守ったことは称賛に値すると述べ、孫に郎中の官を与えたという(注に収める詔)。
- 曹髦を刺した成済について、『漢晋春秋』は太子舎人とし、『魏氏春秋』は騎督の成倅の弟とする。司馬昭の上奏(本文)は、成済が命に反して皇帝を傷つけたとし、大逆の法に当たり、父母妻子兄弟まで斬ると述べ、皇太后はこれを認めた。注に引く『魏氏春秋』は、成済兄弟が罪に服さず、衣を脱いで屋根に登り、悪口を言ったので、下から射殺されたと伝える。『晋書』文帝紀は、皇太后が認めて成済の三族を滅ぼしたと記す。司馬昭の上奏と、賈充の指示を伝える注とでは、責任の説明が異なる。
- 注に引く『晋紀』『魏氏春秋』と『晋書』は、陳泰が司馬昭に、賈充を処刑して天下に謝すべきだと答えたと伝える。『魏氏春秋』には、陳泰が血を吐いて死んだともあるが、裴松之は、『晋紀』が陳泰を太常とするのは陳寿本文の官歴と合わないと指摘し、『魏氏春秋』の言葉にも著者の手が入っているのではないかと疑っている。会話の細部は、確定した事実として扱えない。
- 本文に載る皇太后の令は、曹髦を「悖逆不道」とし、前鋒に害されたと説明し、庶人の礼で葬るよう命じた。これは事件後の公式の説明で、人物の評価としてそのまま受け取れない。
- その後、司馬孚・司馬昭らの上申で、王の礼で葬ることに改められた(本文)。注に引く『漢晋春秋』は、葬列は数台の車で旗もなく、人々が「先日殺された天子だ」と泣いたと伝えるが、裴松之は「王の礼でと言いながら、そのような葬りだったのか。悪意ある誇張だろう」と疑っている。
- 陳寿は評に「才慧夙成し、問を好み辞を尚ぶ。蓋し亦た文帝(曹丕)の風流なり。然れども軽躁忿肆にして、自ら大禍を蹈めり」と記す。学問の才と、軽はずみで怒りに任せた行いとが、同じ評のなかに並んでいる。
主な出典
『三国志』魏書 三少帝紀(本文、および裴松之注に引く『漢晋春秋』『魏氏春秋』『世語』『晋紀』『晋諸公賛』『魏末伝』『帝集』)、魏書 武文世王公伝、巻9(王経)、巻22(陳泰)、『晋書』文帝紀
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
皇帝としての名分と、実際に動いた行動とのあいだにあり、規律は中間としています。
皇太后令に従って即位しながら、司馬昭の専権のもとで兵を挙げた行動は、皇帝としての立場を取り戻そうとする方向に揃っています。ただし本文は理由を書かず、動機は注が引く書の記述と行動からの読みです。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。