CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹芳
幼くして即位し、司馬師に廃された皇帝
曹芳は、魏の第3代皇帝です。明帝曹叡の養子として幼くして即位し、曹爽と司馬懿に補佐され、のち司馬師に廃されて斉王となりました。実の父母は史書に分からず、即位も廃位も本人が選んだものではありません。ここでの人物像は、記録からの読みで、廃位の理由として並ぶ非難は、廃した側の記録であることを分けて書いています。
明帝曹叡の養子。幼くして即位し、曹爽と司馬懿に補佐されたが、嘉平6年(254年)、司馬師に廃されて斉王となった。
THE WAY OF LIFE
曹芳の生き方
本人が選んだ立場ではなかった。実の親は本文では分からず、明帝の養子として育てられ、幼くして皇帝になった。決断や挑戦が低めなのは、自分で動かせる場面が記録にほとんどないことに基づく読みです。
在位中には、『論語』『尚書』『礼記』の学習の修了や、民の負担を軽くする詔が記録されている。ただし詔は朝廷の名義で出されたもので、本人の発案かどうかは分かりません。
持ち味と、その裏側
学問を進め、民の負担をいたわる詔を残した。一方で、廃位を求めた側は遊興や諫言への乱暴を挙げる。どちらも同じ重さで扱え、どちらも本人の人格をそのまま示すとは言い切れない人物でもあります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
232年ごろ〜泰始10年(274年)
明帝曹叡の養子。実の父母は不明。字は蘭卿。
- 字は蘭卿。本文は「明帝に子がなく、王(芳)と秦王詢を養った。宮中の事は秘せられ、その由来を知る者はなかった」と記し、実の父母は分からない。裴松之注に引く『魏氏春秋』は、「或いは任城王楷の子という」とする。これは異説で、確定した父ではない。
- 景初3年(239年)正月、明帝が重病となり、曹芳は皇太子に立てられ、同日に即位した。大将軍の曹爽と太尉の司馬懿が補佐した(本文)。即位時の年齢は本文にない。注に引く『魏世譜』が没年の年齢を43歳とするので、逆算すると8歳ごろになる。
- 最初の詔には、宮殿造営の中止や、高齢の官奴婢を良民にする命令が記される(本文)。幼い皇帝の名義で出された詔で、曹芳本人の発案かどうかは分からない。
- 在位中の本文には、239年7月に初めて朝廷に臨んだこと、正始2年(241年)に『論語』の学習を終えて孔子を祭ったこと、正始4年(243年)の元服、正始5年に『尚書』、正始7年に『礼記』の講義を終えたことが並ぶ。
- 正始7年(246年)の詔は、道路の整備で老人や子どもまで鞭打って働かせることを戒め、通行できれば十分だとする。裴松之は、239年に高齢の官奴婢を解く詔があったのに、246年にも同じような人々が売られていることを疑問としている。詔の理想と実際の運用は別だった、ということになる。
- 嘉平元年(249年)正月、曹芳が高平陵に参詣している間に、司馬懿が曹爽らの官職を免じるよう奏し、曹爽一派は処罰された(本文)。本文は、曹芳がこの政変を計画した、あるいは司馬懿と共謀したとは書いていない。
- 嘉平6年(254年)、中書令の李豊が皇后の父の張緝らと、大臣の交替を企てたが、発覚して処刑された。曹芳の張皇后は廃された(本文)。本文は、曹芳が首謀者だったとは書いていない。
- 本文に載る皇太后の令は、曹芳が年長じても政務を親らせず、内寵に溺れ、日々芸人を呼んで醜い戯れを縦にした、と非難し、斉国へ戻すよう命じる。ただし本文は、その直前に「大将軍司馬景王(師)が帝を廃そうと謀った」とも記している。これは廃位を求めた側が掲げた理由で、曹芳の行いが独立に立証されたものではない。
- 裴松之注に引く『魏書』は、司馬師と群臣の協議を詳しく記し、曹芳が芸人と遊び、諫めた令狐景らに乱暴をしたといった、さらに具体的な非難を並べる。司馬師が涙を流して令を示し、群臣が伊尹・霍光の故事を挙げて廃位を支持した、とも描く。廃位を正当化する文書の性格が強い記録である。
- 同じく注に引く『魏略』は、司馬師が郭芝を皇太后のもとへ遣わして廃位を告げさせ、軍も配置していると伝えたこと、皇太后が司馬師に会いたいと言っても許されず、最後は璽綬を渡したことを記す。曹芳は斉王の車に乗り、皇太后と別れて涙を流し、司馬孚も悲しみ、多くの群臣が涙したという。本文が皇太后の令として記す形と、『魏略』が伝える軍事的な圧力とが、同じ事件の二つの面として残っている。
- 『世語』『魏氏春秋』は、側近の許允らが司馬昭を殺そうとしたので司馬師が廃位を決めた、と伝える。しかし裴松之は、許允はその年の春に李豊事件の余波で失脚し、流刑の途中で殺されており、秋に計画へ加われるはずがないと、年代の矛盾を指摘している。
- 廃位されたとき、曹芳は23歳と本文に記され、斉王として別宮に移された。晋の受禅後は邵陵県公となり、泰始10年(274年)に43歳で亡くなり、諡は厲公(注に引く『魏世譜』)。
- 陳寿の評は、曹芳の性格を論じず、明帝が適切な後継者を選ばず、幼い子を養って皇位を継がせ、補佐の権限を整理しなかったことを問題とし、それが曹爽一族の滅亡と曹芳の廃位につながったと述べる(本文)。
主な出典
『三国志』魏書 三少帝紀(本文、および裴松之注に引く『魏氏春秋』『魏書』『魏略』『世語』『魏世譜』)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
本人の行いと、朝廷や補佐役の名義が混ざっており、規律は中間としています。
皇帝としての行いは、補佐役や朝廷の名義で出された詔が多く、本人の意思と切り分けられません。そのため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。