CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹純
曹操の精鋭「虎豹騎」を率い、劉備の娘を捕らえた人
曹純は、字を子和といい、曹仁の同母の弟で、曹操の同族です。家は富み、学問を好んで学者を重んじ、文人が多く集まったと伝わります。二十歳ごろ、曹操が譙県で挙兵した際に従い、建安10年(205年)の南皮の戦いでは、精鋭の騎兵部隊「虎豹騎」を率いて、曹操が退こうとしたときも攻め続けるよう進言しました。建安12年(207年)の北征では烏桓の単于・蹋頓を捕らえたとされ、建安13年(208年)には長坂で劉備を追い、劉備の二人の娘と輜重を捕らえます。建安15年(210年)に亡くなると、曹操は、後任の虎豹騎の指揮官を置かず、「純に並ぶ者がいようか。自分で率いるほかない」という趣旨のことを述べたと伝わります。経歴は『三国志』魏書 曹純伝をもとにしています。
曹操の一族で、曹仁の同母の弟。若くして曹操に従い、精鋭の騎兵部隊「虎豹騎」を率いた。南皮で袁譚を討ち、長坂で劉備の二人の娘を捕らえた。建安15年(210年)に亡くなった。
THE WAY OF LIFE
曹純の生き方
騎兵の指揮を預けられ、曹操が後任に自分以外を置かなかったと伝わる。曹純は、周囲の信頼を集める指揮官の人物像です。
戦場での働きは記録に残るが、自分の言葉や思想はほとんど伝わらない。表現を低めに置いています。
持ち味と、その裏側
大事な戦場で騎兵を使いこなす統率と、一族として曹操の信頼を集めた規律の高さ。一方で、自分の考えや主張を示す記録は乏しく、人柄の細部は伝わらない人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳(170年頃)〜建安15年(210年)
沛国譙県の人。字は子和。曹仁の同母の弟で、曹操の同族。子に曹演。
- 父を早くに亡くし、兄とともに暮らした。家は富み、使用人が大勢いたが、厳しく公平に取り仕切ったという。学問を好み、学者を重んじて、文人が多く集まった。
- 十代の終わりに黄門侍郎となった。本文は十七歳、裴注が引く『英雄記』は十八歳と書く。
- 二十歳ごろ、曹操が譙県で兵を集めて挙兵した際、曹純は曹操に従い、各地を転戦した。のち議郎となり、司空の軍事に参じた。
- 建安10年(205年)初め、南皮の戦いで、曹操が袁譚を攻めた。曹純は、精鋭の騎兵部隊「虎豹騎」を率いた。損害が大きく、曹操が退こうとしたとき、曹純は攻め続けるよう進言した。曹純伝は、曹純の騎兵が袁譚の首を斬った、と記す。
- 虎豹騎は、百人以上を率いた経験のある者だけが選ばれる、曹操直属の精鋭だった。曹純は、その部隊の将兵の信頼を得ていたため、指揮官に選ばれたと伝わる。
- 建安12年(207年)、曹操の北征で、曹純の騎兵が烏桓の単于・蹋頓を捕らえた、と曹純伝は記す。蹋頓を斬ったのが誰かは、伝によって書き方が分かれる。曹純は、この功で高陵亭侯に封じられ、三百戸を与えられた。
- 建安13年(208年)、荊州の征討に従った。曹純は長坂で劉備を追い、劉備の二人の娘と輜重を捕らえ、散り散りになった兵を収めた。そのあと譙に戻った。赤壁の戦いに参加したかどうかは、はっきりしない。
- 建安15年(210年)に亡くなった。曹操は、後任の虎豹騎の指揮官を置かず、「純に並ぶ者がいようか。自分で率いるほかない」という趣旨のことを述べたと伝わる。
- 曹丕が帝位に就いたあと、曹純は威侯と諡された。子の曹演は、魏の領軍将軍になった。
主な出典
『三国志』魏書 諸夏侯曹伝(曹純伝)、裴松之注に引く『英雄記』『魏書』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
曹操の一族として軍紀を守り、部隊の信頼を得た記録から、規律は秩序寄りとしています。
曹操の側で騎兵を率い続けた記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。