CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹沖
幼くして知恵で人を救い、早世した子
曹沖は、字を倉舒といい、象の重さを量る方法を考えた逸話で知られる、曹操の子です。罪を恐れる役人のために策を立て、前後数十人を取りなして救ったと記されています。建安13年(208年)、十三歳で亡くなり、曹操は深く哀しみました。ここでは、知恵を人のために使った姿と、その短い生涯を、性格を読み解く手がかりとしています。
曹操の子で、字は倉舒。象の重さを量った話などで知られ、罪に問われた人を取りなして救ったと伝わる。建安13年(208年)、十三歳で病没した。
THE WAY OF LIFE
曹沖の生き方
幼い頃から物事の筋を見抜き、困った人の側に立って知恵を使った。曹沖は、聡明さと、人を思う心を併せ持つ人物像です。
罰を恐れる役人のために、策を立てて曹操の怒りをやわらげた。構想と動機の高さに、その知恵と優しさを重ねています。
持ち味と、その裏側
物事を筋道立てて考える知恵と、人の罪を取りなそうとする優しさ。一方で、自分が前に立って人を率いる経験は少なかったため、仲間とともに動く機会を重ねることも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建安13年(208年)
曹操の子。母は環夫人。字は倉舒。
- 曹操の子。字は倉舒。母は環夫人。幼い頃から聡明で、五、六歳のときには、考え方が成人のようだったと記される。
- 孫権が巨大な象を贈ってきた。曹操はその重さを知りたがったが、群臣は誰も方法を思いつかなかった。沖は「象を大きな船に載せ、水の来た所に印を刻む。次に物を載せて、同じ所まで沈めれば、重さが分かる」と言い、曹操は大いに喜んで実行した。
- 軍国の事が多く、刑罰は重かった。曹操の馬の鞍が倉庫で鼠にかじられ、庫吏は死罪を恐れた。沖は「三日待ってから自首せよ」と言い、刀で単衣に鼠がかじったような穴を開け、憂い顔で曹操の前に出た。理由を問われると「世俗では、鼠が衣をかじると主人に不吉が起きると言うので」と答えた。曹操は「それは妄言だ」と言った。やがて庫吏が鞍の件を報告すると、曹操は笑い、「子どもの衣でさえ、側でかじられた。まして柱にかけた鞍ならなおさらだ」と、何も問わなかった。
- 罪に当たる者を、沖がひそかに取りなして救ったのは、前後数十人に及んだ。裴松之注に引く『魏書』は、沖は刑を受ける者を見るたび、その冤罪の事情を探り、勤労の吏が過ちで罪に触れたときも、曹操に寛大な処分を勧めた、と記す。
- 曹操はたびたび群臣の前で沖を称え、後を伝える意があったという。建安13年(208年)、沖は十三歳で病になり、曹操は自ら命を請うたが、亡くなった。曹操は深く哀しみ、慰める文帝(曹丕)に「これは私の不幸で、お前たちの幸いだ」と言った。
- 裴松之注に引く『魏略』は、のちに文帝が「家兄は孝廉だったが、それは分に応じたこと。もし倉舒が生きていたら、私は天下を持たなかっただろう」と言った、と記す(「家兄」は曹昂とみられる)。同じ箇所の注で、孫盛は、嫡長を立てるのに賢で決めないのが『春秋』の義だとして、曹操の言葉を批判している。
- 曹操は、亡くなった甄氏の娘を迎えて沖と合葬し、騎都尉の印綬を贈り、宛侯據の子・琮に後を継がせた。黄初2年(221年)に鄧哀侯、のち公、太和5年(231年)に鄧哀王と追号された。
主な出典
『三国志』魏書 武文世王公伝(鄧哀王沖の項と、裴松之注に引く『魏書』『魏略』、孫盛の評)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
罰の重い軍国の中で、役人の過ちを取りなした姿から、規律は中間に置いています。
罪に問われた人を取りなして救った記録が前後数十に及ぶことから、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。