CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹昂
弱冠で孝廉に挙げられ、父の南征に散った人
曹昂は、曹操の子として生まれ、弱冠で孝廉に挙げられた人物です。史書に残るのは、曹操の南征に従って張繡に殺されたことと、没後に追封された経過など、わずかな記録です。ここでの人物像は、孝廉という経歴から重ねた読みで、本人が何を選んだかではなく、残された記録の少なさを手がかりとしています。
曹操の子で、字は子脩。弱冠で孝廉に挙げられ、曹操の南征に従って、張繡に殺された。
THE WAY OF LIFE
曹昂の生き方
史書に人柄の記述は少ない。孝廉に挙げられた経歴と、父の戦に従った事実から、きまじめな青年の姿を重ねた人物像です。
孝廉は、親孝行で清廉な人物として推薦される制度だった。その経歴を手がかりに、規律の高さを重ねています。
持ち味と、その裏側
推薦を受けるにふさわしい、きまじめさと責任感。一方で、記録が少ないため、本人が何を選んだかは分からず、周囲の評価に頼って読む人物でもあります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建安2年(197年)ごろ
曹操の子。母は劉夫人。字は子脩。
- 曹操の子。字は子脩。母は劉夫人で、弟に相殤王鑠がいる。弱冠(二十歳前後)で孝廉に挙げられた。
- 曹操の南征に従い、建安2年(197年)正月、宛での張繡との戦いで殺された。子はなかった。『三国志』武帝紀(本文)は、張繡が降ったのち反し、曹操は敗れて流れ矢に当たり、長子の昂と甥の安民が殺されたと記す。馬の話は本文にはない。
- 裴松之注に引く王沈『魏書』は、曹操の乗馬「絶影」が流れ矢に当たり、頬と脚を傷つけ、曹操の右腕にも当たったと記す。同じく注に引く郭頒『世語』は、「昂は騎ること能わず、馬を公に進め、公は故に免れ、昂は遇害す」と記す。つまり、昂が馬を差し出して曹操が逃れ、昂は殺された、という筋である。
- この二つは別の書の記述で、「傷ついた絶影を昂が譲った」とつなげて書くことはできない。なぜ昂が騎れなかったのか、どの馬だったのか、差し出したのか奪われたのかは、引かれた文からは分からない。典韋伝(本文)は同じ戦いで典韋が門を守って戦死したと記すが、昂の馬の話は載せていない。
- 黄初2年(221年)、豊悼公と追封された。3年、樊安公均の子・琬が昂の後を継ぎ、中都公に封じられ、同じ年、長子公に移った。5年には、豊悼王の号が加えられた。
- 太和3年(229年)、昂の諡が「愍」に改められた。嘉平6年(254年)、琬が豊王の爵を継ぎ、正元・景元の間にたびたび邑を加えられ、合わせて二千七百戸を領した。琬の没後、諡は恭王、子の廉が継いだ。
主な出典
『三国志』魏書 武文世王公伝(豊愍王昂の項)、武帝紀(裴松之注に引く王沈『魏書』・郭頒『世語』を含む)、典韋伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
孝廉に挙げられた経歴から、規律は秩序寄りとしています。
史書に残る記述が少ないため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。