CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹幹
幼くして両親を失い、兄に庇われて生き延びた人
曹幹は、曹操の子として生まれ、三歳で母を、五歳で父を失ったと伝わる人物です。兄の曹丕は幹を厚く遇し、甥の明帝も、戒めの書は下したものの罪は赦しました。ここでは、頼れる人の庇護を受け取る素直さと、長く封地を保った慎みを、性格を読み解く手がかりとしています。
曹操の子で、趙王。幼くして両親を失い、兄の曹丕に託されて育った。のち甥の明帝に戒められたが罪は赦され、261年まで趙王として生きた。
THE WAY OF LIFE
曹幹の生き方
頼れる人を幼くして失い、兄を「阿翁」と呼んで慕った。曹幹は、人との縁を素直に受け取る人物像です。
禁を犯したと奏上されても、先帝の顧命と恩礼のもとで赦され、その後も長く封地を保った。規律と表現の高さに、その慎みと温かさを重ねています。
持ち味と、その裏側
庇ってくれる人との縁を保つ素直さと、戒められたあとも長く地位を保つ慎み。一方で、周囲の目が厳しい立場だったため、近づく人の選び方に気を配ることも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安20年(215年)頃〜景元2年(261年)
豫州沛国譙県の人。曹操の子。一名は良。
- 曹操の子。『魏略』は一名を良とし、陳妾の子だと記す。建安20年(215年)ごろに生まれ、高平亭侯に封ぜられた。22年に頼亭侯、続いて弘農侯に改封された。
- 『魏略』は、「生まれて陳氏が死んだ」ため、太祖が王夫人に養わせたと記す。同じ注の遺令は「三歳で母を失い」と言い、二つは合わない。『太平御覧』が引く『魏略』も同じ二つを併記しており、食い違いは解けていない。陳寿の本文は、幹の母を王昭儀とし、太祖に寵愛され、文帝が後継になるときに力があった、と記す。王昭儀と、養育者の王夫人が同じ人かは、原史料では確かめられていない。
- 曹操が危篤になると、『魏略』によれば、太子に「この子は三歳で母を失い、五歳で父を失う。お前に託す」と遺言した。太子はこれ以降、幹を親しく待遇し、ほかの弟より厚く遇した。
- 幹は幼く、いつも文帝を「阿翁」と呼んだ。文帝は「私はお前の兄にすぎない」と返し、その様子を哀れんで、いつも涙を流した(『魏略』)。
- 黄初2年(221年)に燕公、3年に河間王、5年に楽城県王、7年に鉅鹿王と改封され、太和6年(232年)に趙王となった。本文は、文帝が臨終に遺詔を残したため、明帝(曹叡)は常に恩を加えた、と記す。
- 青龍2年(234年)、幹が賓客と私的に交際したと有司に奏上された。明帝は璽書で戒めたが、幼い頃から恭順で、先帝の顧命を受けた身であるとして、罪を赦すよう有司に詔した。璽書は、楚王彪・中山王衮が同じ禁を犯したことや、東平王徽が属官に役人を殴らせた件にも触れ、幹を「叔父」と呼ぶ。
- 景初・正元・景元の間にたびたび邑を加えられ、合わせて五千戸を領した。景元2年(261年)8月に薨じた(『三国志』三少帝紀)。
- 同じ時代、二十歳年上の異母兄の楚王彪は、嘉平元年(249年)、王凌らが擁立を謀った事件で璽書による叱責を受け、自殺した。幹とは別の道をたどった。
- 『三国志』武文世王公伝の評は、魏の王公について、国土の名はあっても社稷の実はなく、禁防が隔てて牢獄のようだ、と記す。曹幹は、その仕組みの中で長く生きた一人である。
主な出典
『三国志』魏書 武文世王公伝(趙王幹の項と、裴松之注に引く『魏略』)、魏書 三少帝紀
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
禁令に触れたと記されるのは一度で、その後も恩を加えられ続けた姿から、規律は秩序寄りとしています。
庇われた立場で、自分の利益を求めた記録が見えないため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。