CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹叡
床に届く長い髪を持つ、物静かな魏の二代皇帝
曹叡は、字を元仲といい、曹丕と甄氏の子で、魏の第2代皇帝です。父に疎まれて長く太子に立てられませんでしたが、226年に曹丕が病床につくと皇太子となり、すぐに即位しました。即位後は、亡き母の甄氏に皇后の位を追贈します。立つと髪が床に届くほど長かったと伝わり、吃音で口数は少なかったといいます。司馬懿を重く用いて、諸葛亮の北伐を退け、238年には公孫淵を討って遼東を平定しました。晩年は宮殿の造営を重ねて魏の財政が傾き、239年1月、曹爽と司馬懿に幼い曹芳を託して亡くなります。経歴は『三国志』魏書 明帝紀と『晋書』をもとにしています。
魏の第2代皇帝。曹丕と甄氏の子。諸葛亮の北伐や公孫淵の討伐を退けたが、晩年は宮殿の造営に力を入れ、239年に亡くなった。
THE WAY OF LIFE
曹叡の生き方
静かに座り、多くを語らない。曹叡は、鋭い構想力と、ためらわず断を下す決断力を併せ持つ人物像です。
言葉より、まなざしと采配で人を動かした。構想と決断の高さと、表現の低さに、その物静かさと威厳を重ねています。
持ち味と、その裏側
先を見通す構想力と、反対を押し切ってやり遂げる決断力。一方で、造営への傾きが財政を圧迫し、晩年は国力を削りました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
206年(または204年)〜景初3年(239年)
豫州沛国譙県の人。字は元仲。曹丕の長子で、母は甄氏。
- 母は甄氏。父の曹丕に疎まれ、長く太子に立てられなかった。226年、曹丕が病床につくと皇太子となり、すぐに即位した。即位後、亡き母の甄氏に皇后の位を追贈した。
- 容貌は人並みはずれて優れ、「天姿秀出」と評された。立つと髪が床に届くほど長かったと伝わる。吃音のため、口数は少なかったという。
- 227年に孟達の反乱を司馬懿に任せて鎮め、以後も司馬懿を重く用いた。228年には諸葛亮の北伐を退け、231年にも司馬懿に迎撃させた。呉への攻めは敗れることもあった。
- 238年、群臣の反対を押し切って公孫淵の討伐を決め、司馬懿に全権を委ねて、遼東を平定した。
- 陳羣の死後は、宮殿の造営を重ねて、魏の財政は傾いたとされる。
- 狩りで、母鹿を射たあとに子鹿を射るのを拒み、「父上は、すでに母を殺してしまわれました。私はこの上、その子まで殺すのは忍びありません」と涙を流した、という話が伝わる。ただし、後世の創作とも指摘される。
- 239年1月、洛陽で病が重くなり、曹爽と司馬懿に、幼い曹芳の後見を託して亡くなった。享年35(異説あり)。
- 陳寿は、冷静で剛胆、決断力と見識を併せ持つと評した。一方で、『晋書』には、晩年の乱れた振る舞いが記されている。
- 『三国志演義』では、諸葛亮の北伐に対して司馬懿を起用する皇帝として描かれ、晩年は宮殿の造営に力を入れる。
主な出典
『三国志』魏書 明帝紀・同注引『魏略』『魏書』、『晋書』、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
諫言を受け入れる一方で、自分の判断で人事や造営を進めたため、規律は中間としています。
国を守る責任と、宮殿造営への執着の両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。