CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
曹休
曹操に「千里の駒」と呼ばれた、呉への備えの大将軍
曹休は、字を文烈といい、曹操の族子です。曹操は、曹休を「わが家の千里の駒」と称え、曹丕と同様に可愛がって、虎豹騎の指揮を任せました。建安23年(218年)、漢中攻防の際に曹洪の軍に加わり、劉備軍の計略を見抜いて呉蘭・雷銅らを破ります。曹丕が帝位に就いたあとは、鎮南将軍・征東大将軍として呉への備えを担いました。太和2年(228年)の石亭の戦いで、呉の周魴の偽りの降伏を信じて出兵し、陸遜に挟み撃ちにされて大敗します。賈逵の援軍で生還しましたが、背中に腫瘍ができ、間もなく亡くなりました。経歴は『三国志』魏書 曹休伝・賈逵伝をもとにしています。
曹操の一族の若者で、曹操に「わが家の千里の駒」と愛された。漢中や呉との戦いで活躍したが、228年の石亭の戦いで周魴の偽降にかかって大敗し、間もなく亡くなった。
THE WAY OF LIFE
曹休の生き方
迷わず前へ出て、軍を率いる。曹休は、強い統率力と、決断の速さを併せ持つ人物像です。
勢いに任せて進み、策の裏を疑いきれなかった。決断と挑戦の高さと、構想の低さに、その強気と、罠に気づけなかった脆さを重ねています。
持ち味と、その裏側
戦場で迷わず軍を率いる決断力と、一族の期待に応える責任感。一方で、自信が強いぶん、周魴の偽降を疑った賈逵を軍から外すなど、反対意見に耳を貸さず、大きな損失を招きました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜太和2年(228年)
沛国譙県の人。字は文烈。曹操の族子で、祖父は呉郡太守の曹鼎。
- 曹操の一族の子で、若くして曹操に仕えた。曹操は、曹休を「わが家の千里の駒(優れた子)」と称えたという。曹丕と同様に可愛がられ、虎豹騎の指揮を任された。
- 建安23年(218年)、漢中攻防の際、騎都尉として曹洪の軍に加わり、劉備軍の計略を見抜いて、呉蘭・雷銅らを破った。
- 曹丕が帝位に就いた後は、鎮南将軍・征東大将軍として、呉への備えを担った。呂範らの呉軍との戦いで、功を立てた。
- 太和2年(228年)、石亭の戦いが起きた。呉の周魴が偽って降伏を申し出ると、曹休はこれを信じ、司馬懿・賈逵とともに、呉への出兵に当たった。
- 周魴は、疑いを晴らすため、髪を切って誠意を示した。賈逵が疑念を伝えたが、曹休は聞き入れず、賈逵を軍から外すような形で進んだ。
- 石亭で、陸遜の率いる呉軍に挟み撃ちにされて、曹休は大敗した。賈逵の援軍のおかげで、辛くも生還した。
- 敗戦の帰路で背中に腫瘍ができ、その悪化によって、間もなく亡くなった。賈逵の進軍が遅れたことを恨んだ、という記録も残る。
- 『三国志演義』では、周魴の偽降の計にかかる場面が、詳しく描かれる。
主な出典
『三国志』魏書 曹休伝・賈逵伝・周魴伝(呉書)、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
魏の命令と、軍の序列に沿って動く姿から、規律は秩序寄りとしています。
曹家への忠勤と、自分の功名の両方が見えるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。