CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
是儀
呂壱の讒言の中で『聞いていない』と言い通し、孫権に『皆が是儀なら法はいらない』と言わせた呉の臣
是儀は、字を子羽といい、北海郡営陵県の人で、本姓は氏でした。孔融に「氏の字は民の上が無い形だ。是に改めるのがよい」と戯れられて、素直に是と改めたと伝わります。劉繇を頼って江東へ避難し、建安5年(200年)に孫権に招かれて、機密を掌りました。呂蒙が関羽を襲う計を立てたときは、その計をよしと勧めています。典校郎の呂壱が官僚を陥れるなか、ただ一人、江夏太守の刁嘉の件について「聞いておりません」と事実のとおり答え続け、孫権は「人がみな是儀のようならば、どうして法令で人を縛る必要があろうか」と嘆きました。尚書僕射を務め、清廉で家産を持たず、81歳で没しました。経歴は『三国志』呉書 是儀伝をもとにしています。
字は子羽。北海郡営陵県の人。本姓は氏で、孔融に嘲られて是に改めた。劉繇を頼って江東へ避難し、孫権に招かれて機密を掌った。呂壱が官僚を陥れる中でも、ただ一人『聞いていない』と事実を通して刁嘉を救った。清廉で家産を持たず、81歳で没した。
THE WAY OF LIFE
是儀の生き方
姓をからかわれて素直に改め、権力者の讒言の前でも事実を曲げなかった。柔らかい物腰と、芯の硬さを併せ持つ人です。
隣人が大きな邸宅を建てても、孫権が『是儀の家ではあるまい』と言うほど質素だった。規律は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
権力者の圧力にも事実だけを述べて動かない誠実さと、誰の短所も言わない穏やかさ。呂蒙の関羽襲撃策に賛同して勧めた判断。太子孫登の補佐や諸公子の教育など、人を育てる役目の適性。一方で、軍の指揮は自ら向いていないと辞退し、積極的に何かを仕掛けるタイプではない。決断、構想は中程度、挑戦と統率は低めに置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(81歳で没した)
北海郡営陵県(現在の山東省昌楽県)の人。字は子羽。本姓は氏。都郷侯。尚書僕射。
- 北海郡営陵の人で、字は子羽。本姓は氏だった。はじめ県の吏となり、のち郡に仕えた。当時の北海相は孔融だった。孔融は是儀を、「氏の字は民の上が無い形だ。是に改めるのがよい」と戯れた。是儀は素直に是と改めた。のち劉繇に身を寄せ、乱を避けて江東に移った。
- 劉繇の軍が敗れた建安元年(196年)ごろ、是儀は会稽に移った。建安5年(200年)に孫権が江東を治めると、文を優しくして是儀を招いた。是儀は親任を受けて機密を専ら掌り、騎都尉に任じられた。
- 呂蒙が関羽を襲う計を立てたとき、孫権は是儀に意見を問うた。是儀はその計をよしとし、聴くよう勧めた。孫権が関羽の討伐に出ると、是儀も従い、忠義校尉に任じられた。是儀が辞退すると、孫権は「私は昔の趙簡子ではないが、卿はなぜ自ら下がって周舎(直言の臣)にならないのか」と述べて受けさせた。
- 黄初元年(220年)、孫権が武昌に都を置くと、是儀は裨将軍、都亭侯となり、侍中を兼ねた。孫権が兵を与えようとしたが、是儀は自分に軍を率いる才はないとして固辞した。
- 黄武年間、孫権は是儀を皖城に遣わし、将軍劉邵の下に就かせ、曹休をおびき寄せさせた。曹休が来ると呉軍に大敗した。是儀は偏将軍に進み、朝に入って尚書事を総領し、朝廷外の諸官を統べ、訴訟事務も兼ねた。また、孫権は諸公子の読書を是儀に教えさせた。
- 黄龍元年(229年)、孫権が建業に都を遷すとき、太子の孫登が武昌に留まって鎮守した。是儀はこれを補佐するよう命じられた。孫登は是儀を深く敬い、何事もまず是儀に相談してから行った。是儀は都郷侯に進んだ。
- 嘉禾元年(232年)、孫登に従って建業に戻り、再び侍中、中執法となり、諸官の事務を管理して、訴訟も兼ねた。嘉禾3年(234年)、蜀の諸葛亮が没すると、孫権は蜀の様子を気にかけ、是儀を使者に遣わして同盟友好を固めさせた。是儀の言動は孫権の意にかなった。のち尚書僕射に任じられた。
- 典校郎の呂壱は、しばしば朝廷の官僚を弾劾し、ある者は4回も罪を訴えられた。しかし、是儀を弾劾する口実だけはついに見つけられなかった。呂壱が江夏太守の刁嘉を、「国政を誹謗した」と陥れたとき、孫権が百官に「聞いたか」と問うた。百官は呂壱を恐れて「聞きました」と言ったが、是儀だけは「聞いておりません」と答えた。
- 孫権が何度も厳しく問い詰めたが、是儀は少しも動揺せず、事実の通り『聞いていない』と答え続けた。ついに孫権は是儀を信じ、刁嘉も冤罪を晴らすことができた。孫権は嘆いて「人がみな是儀のようならば、どうして法令で人を縛る必要があろうか」と言った。
- 是儀は家産を営まず、衣服や食事も高価なものではなく、常に貧しい人を救ったため、家に蓄えもなかった。孫権は何度も俸禄を増やし、田地や家を与えようとしたが、是儀はそのたびに辞退した。隣人が大きな邸宅を建てたとき、孫権が外出の途中でそれを見て、誰の家かと尋ねた。側近が「是儀の家のようです」と答えると、孫権は「是儀は質素だから、彼ではあるまい」と言った。尋ねてみると、確かに他人の家だった。
- 是儀は人材を推挙し、良策を献じても、他人の短所を言ったことは一度もなかった。孫権が、政事を論じず是非も言わないと責めると、是儀は「聖明なる君主が上におられます。臣下はその職を謹んで守り、職にふさわしくないことをこそ恐れます。愚かな私見で陛下のお耳を乱すことはいたしません」と答えた。
- 赤烏5年(242年)、孫権が孫和を太子に立て、孫覇を魯王に封じたが、孫覇を寵愛した。是儀は魯王傅を兼ねていたが、孫和と孫覇の待遇が同じようで不適切だと考え、上疏した。孫覇は文武の才があるので四方の鎮守に当たらせ、国家の防壁とすべきだ、また二宮は上下の序を正し、教化の根本を明らかにすべきだと述べ、3、4度にわたって上書した。魯王傅としても、事あるごとに諫め、恭敬に人と交わった。
- 重い病に伏すと、是儀は遺言して、素朴な棺に、普段着のまま納め、すべて倹約簡素にするよう求めた。81歳で没した。
- 陳寿は、是儀・徐詳・胡綜は孫権の時の事業を盛んにした者であり、是儀は清廉で慎み深く誠実で、大きな屋敷にたとえれば、それを支える垂木のような補佐役だ、と評した。
- 徐衆は是儀を、「異郷から来た客として呉に仕え、讒言と威圧の中で、雷同して人を害さず、安易に免れて義を傷つけることもなかった」と評し、「忠にして君に諂わず、勇にして脅威に怯まず、公にして私を存せず、正にして邪に与せない」と記した。一方、孔融に姓を改められたことについては、「姓は祖の本を示すもので、軽々しく改めるべきではない。孔融は誤り、是儀も得たところではない」と批判した。
主な出典
『三国志』呉書 是儀伝(百度百科が引く本文)、徐衆の評、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法を使わずとも人が自ら正すと孫権に言わせたほど、行いが謹直だった点から、規律は最高に置いています。
私財を蓄えず、貧者を救い、他人の短所を語らず事実を通した行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。