三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

文欽

曹爽に重んじられ、魏を離れて呉に走り、味方に斬られた猛将

文欽は、字を仲若といい、豫州譙郡譙県の人で、文鴦の父、曹爽とは同郷です。性格は荒く、礼を欠いて人望がなかったと伝わり、王淩に貪欲で残忍だと弾劾されましたが、曹爽が同郷のよしみで調べないまま任地に戻し、冠軍将軍に進めました。249年に曹爽が倒されると、懐柔のために前将軍に昇進し、揚州刺史になります。正元2年(255年)、毌丘倹とともに寿春で挙兵しましたが、楽嘉で夜明けに司馬師の大軍を見て戦意を失い、大敗して呉へ亡命しました。呉では孫峻に信任され、257年に諸葛誕の乱で寿春に入城しますが、翌年のはじめ、作戦をめぐる対立から諸葛誕に殺されました。経歴は『三国志』魏書 毌丘倹伝・諸葛誕伝をもとにしています。

魏の将。文鴦の父。同郷の曹爽に厚遇され、司馬氏の世になって毌丘倹とともに挙兵した。楽嘉で敗れて呉に走り、のち諸葛誕の乱の最中、籠城する寿春で諸葛誕に殺された。

THE WAY OF LIFE

文欽の生き方

気性が荒く、上官を侮ったと伝わる。文欽は、武勇は確かでも、人と折り合うのが苦手な人物像です。

曹氏への恩を理由に挙兵しながら、不満も抱えていた。規律を低く、動機を中間に置いています。

持ち味と、その裏側

弓馬と武勇の強さと、前線で兵を動かす力。魏でも呉でも将として任された事実がある。一方で、粗暴さや自尊心の高さが、味方にも敵にも嫌われる原因になった人物です。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生年未詳〜太平3年(258年)

豫州譙郡譙県の人。字は仲若。父は文稷。子に文鴦・文虎。曹爽とは同郷。

  1. 豫州譙郡譙県の人で、字は仲若。父の文稷は曹操に仕えた武人だった。曹爽とは同郷にあたる。
  2. 建安24年(219年)、魏諷の反乱に関わる発言をして連座し、処刑されかけた。曹操は、父の功績を理由に赦した。
  3. 性格は荒く、礼を欠き、人望がなかったと伝わる。歴任した官職で上官を侮り、官吏の決まりにも従わなかったため、憎まれて何度も弾劾された。曹叡はその弾劾を抑えたという。ただし、これらは乱を起こした人物について書かれた記述である点に注意が要る。
  4. 淮南の牙門将から、廬江太守・鷹揚将軍に進んだ。曹芳の時代には、王淩から貪欲で残忍だと弾劾され、一度は都へ呼び戻された。しかし曹爽は、同郷のよしみで詳しい調べをしないまま任地に戻し、冠軍将軍に進めた。文欽は増長して尊大な態度をとり、勇壮さを誇って名を得たと伝わる。
  5. 249年に曹爽が司馬懿に倒されると、懐柔のために前将軍に昇進し、諸葛誕の後任として揚州刺史になった。
  6. 250年、呉に偽の降伏の使者を送ったが、呉の朱異に見破られた。253年には、毌丘倹や張特らとともに、合肥新城で諸葛恪の軍を迎え撃った。
  7. 254年、司馬師が李豊・夏侯玄を処刑し、曹芳を廃位して曹髦を立てると、毌丘倹と文欽は、司馬師の専横を恐れて結んだ。文欽には、報告した捕虜の数や戦功が認められなかった不満もあったと伝わる。
  8. 正元2年(255年)正月、二人は寿春で挙兵した。毌丘倹は項城を守り、文欽は城外で遊軍となった。文欽は楽嘉で鄧艾の軍を襲おうとしたが、夜のうちに司馬師の主力が来ていた。子の文鴦が夜襲をかけて奮戦したが、夜明けに魏軍の大軍を見た文欽は戦意を失って退き、追撃を受けて大敗した。
  9. 寿春はすでに諸葛誕に押さえられており、文欽は呉へ亡命した。呉では、朱異ら諸将に憎まれたが、実権を握る孫峻には信任され、鎮北大将軍・幽州牧・譙侯となった。256年、孫峻に魏への北伐を勧めて、先遣隊を率いた。
  10. 孫峻の死後、孫綝が実権を継ぐと、呂拠が孫綝を非難する上奏をした。文欽は一度は同調したが、のち孫綝の命令で呂拠を滅ぼしたと伝わる。
  11. 太平2年(257年)、諸葛誕が寿春で司馬昭に叛くと、文欽は全端・全懌・唐咨らと入城した。司馬昭の包囲は厚く、呉の後続は途絶えた。魏にいた頃からの不和もあって、城内の疑いは深まり、翌258年のはじめ、作戦をめぐる対立から怒った諸葛誕に殺された。魏の援軍の受け入れを文欽が拒んだから、という別の説もある。
  12. 文鴦と文虎はのちに魏へ降り、司馬昭は降伏者への恩徳を示す方針をとった。文欽の遺体は、故郷に葬ることが許された。

主な出典
『三国志』魏書 毌丘倹伝(裴松之注に引く『魏書』『魏氏春秋』『魏末伝』を含む)・諸葛誕伝、呉書 朱異伝

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:混沌・中立

上官を侮り、法に従わなかったと記録されるため、規律は最も低く置いています。性格を悪く書く記述は、乱を起こした側の人物に向けられたものである点に注意が要ります。

曹氏への恩と、自分の戦功が認められない不満の両方が記録に残るため、動機は中間に置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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