CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
敬哀皇后
張飛の長女。母は夏侯氏。劉禅の最初の皇后として十四年を務めた人
敬哀皇后は、蜀の名将・張飛の長女で、劉禅の最初の皇后です。母は、曹操の将・夏侯淵の姪にあたる夏侯氏で、張飛が拾って妻にしたと伝わります。章武元年(221年)に太子妃となり、建興元年(223年)に皇后に立てられ、建興15年(237年)に没しました。経歴は『三国志』蜀書 二主妃子伝などをもとにしています。
涿郡の人。名は史書に伝わらない。蜀の車騎将軍・張飛の長女で、母は夏侯氏。『魏略』によると、夏侯氏は夏侯覇の従妹にあたり、建安5年(200年)に十三、四歳のとき、郷里で薪を拾いに出たところを張飛に捕らえられた。張飛は良家の娘と知って妻とし、その間に生まれたのが敬哀皇后だという。章武元年(221年)、太子だった劉禅の妃となり、劉禅が即位した建興元年(223年)に皇后に立てられた。建興15年(237年)に亡くなり、南陵に葬られた。諡は敬哀。妹が同じ年に貴人となり、翌年に皇后(張皇后)に立てられた。
THE WAY OF LIFE
敬哀皇后の生き方
敵だった魏の将の家の血と、蜀の猛将・張飛の血を、ともに受けた人。母の縁で、夏侯覇が蜀へ来た折には、劉禅が「夏侯氏の甥です」と引き合わせたと伝わる。
皇后の座にいたのは十四年。史書にはその間の出来事がほとんど記されていない。静かな年月だったのか、記すほどのことがなかったのか、それも分からない。
持ち味と、その裏側
史料が乏しく、人柄を伝える記事はほとんど残っていない。確かなのは、張飛の長女として、劉禅の最初の后となり、十四年の間その座にいたこと。父の猛さよりも、母の家との縁が、のちに語られる材料になった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜237年
涿郡の人。父は張飛、母は夏侯氏。名は史書に伝わらない。
- 蜀の車騎将軍・張飛の長女。母は夏侯氏で、『魏略』によれば夏侯覇の従妹、夏侯淵の姪にあたる。
- 建安5年(200年)、十三、四歳だった夏侯氏は、郷里で薪を拾っているところを張飛に捕らえられた。張飛は良家の娘と知って妻とし、のちに生まれた娘が皇后になったと『魏略』は伝える。夏侯淵が亡くなった際には、張飛の妻が願い出て、その遺骸を葬ったという。
- 章武元年(221年)、太子だった劉禅の妃となった。
- 建興元年(223年)、劉禅が即位すると、皇后に立てられた。
- 建興15年(237年)、亡くなり、南陵に葬られた。諡は敬哀皇后。
- 妹が同じ年に貴人となり、翌年(延熙元年)の正月に皇后に立てられた。これが張皇后である。
- のちに夏侯覇が魏から蜀へ来たとき、劉禅は自分の子を指して「これは夏侯氏の甥です」と引き合わせたと伝わる。
- 小説『三国志演義』では、劉琰の妻を宮中に引き止めて、劉琰が妻と劉禅の密通を疑う騒動の発端になる皇后として描かれる。しかし『三国志』劉琰伝では、史実で劉琰の妻を引き止めたのは穆皇太后(呉氏)である。
主な出典
『三国志』蜀書「二主妃子伝」(後主敬哀皇后伝)。母については『魏略』(『三国志』夏侯淵伝の裴松之注に引用)。経歴は Wikipedia の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
皇后としての立場を保ち続けたことから、規律は秩序寄りに置いています。
本人の意図を伝える記事がほとんどないため、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。