CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
成済
曹髦を刺し、三族を絶たれた人
成済は、魏の太子舎人で、成倅の弟です。260年、曹髦を刺した人物として、複数の史書に名が残ります。事件以前の経歴は、ほとんど分かりません。ここでの人物像は、記録に残る行為からの読みで、人柄や動機を創作で補っていません。
魏の太子舎人で、騎督の成倅の弟。260年、曹髦を刺したと諸書に伝わり、のち三族が処罰された。
THE WAY OF LIFE
成済の生き方
賈充の言葉を受けて戈を抜き、曹髦を刺したと、注と『晋書』が伝える。決断を高めに置いたのは、この行動に基づく読みです。
出身も、生年も、事件以前の人生も、史書にほとんど残っていない。ほかの軸は、記録が少ないため、中間に置いています。
持ち味と、その裏側
史書に残るのは、事件の場面に限られ、長所を示す記録は見当たりません。一方で、悪い面も、人柄まで裏づける記録は多くなく、同じ重さでは書けない人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜甘露5年(260年)
魏の太子舎人。騎督成倅の弟。出身地・父母は不明。
- 司馬昭の上奏(巻4・本文)は「騎督成倅の弟、太子舎人済」と記す。成倅が兄、成済が弟で、『晋書』賈充伝も同じ官職と兄弟関係を記す。出身、生年、父母の名、事件以前の経歴は、確認できない。没年は260年である。
- 曹髦の死は、本文では「卒」の一語で、刺殺の場面も、成済の名もない。場面は、注に引く書と『晋書』に拠る。『漢晋春秋』は、賈充に尋ねた成済が、進み出て刺し、刃が背に出たと伝える。『晋書』賈充伝は、賈充が「公らがお前たちを養ってきたのは、今日のためだ。何を疑うことがある」と言い、成済が戈を抜いて行列を襲ったと記す。
- 『晋紀』は、賈充の言葉を聞いた成済が戈を抜いて行列を襲ったとし、『魏氏春秋』は、成倅の弟の成済が矛で進み、曹髦が軍中で亡くなったとする。『魏末伝』は、成済兄弟が「殺すのか、捕らえるのか」と尋ね、賈充が「殺せ」と言ったと、最も直接に書く。賈充の指示の言葉は、書ごとに違う。
- 司馬昭の上奏(本文)は、成済が「兵陣に横から入って公を傷つけ、ついに命を落とさせた」と述べ、大逆無道は「父母妻子、同産みな斬」の法に当たるとして、家族を廷尉に送るよう求めた。皇太后はこれを認めた。これは司馬昭側の公式の説明で、成済の独断だったという説明を、そのまま客観的な事実とは扱えない。
- 注に引く『魏氏春秋』は、成済兄弟が罪に服さず、衣を脱いで屋根に登り、悪口を言ったので、下から射殺されたと伝える。『晋書』文帝紀は、皇太后が認めて成済の三族を滅ぼしたと記す。
- 『三国志演義』は、成済を兄、成倅を弟とし、成済が司馬昭を罵って舌を切られ、凌遅に処せられたと描く。正史・注の側に、舌を切られた話は見つからず、兄弟の関係も逆になっている。
- 成済は、曹髦を刺した人物で、その行為を消すことはできない。一方で、賈充の言葉や、司馬昭の公式の説明も記録されており、責任を成済一人に集める書き方も公平ではない。事件以前の人生は分からず、残虐な人物だった、あるいは命令に従っただけの被害者だった、とは、どちらにも決めつけない。
主な出典
『三国志』魏書 三少帝紀(司馬昭の上奏、裴松之注に引く『漢晋春秋』『晋紀』『魏氏春秋』『魏末伝』)、『晋書』文帝紀・賈充伝。『三国志演義』は区別して記載
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
記録が少なく、命令に従ったのか、独断だったのかも、書によって異なるため、規律は中間としています。
記録が事件の場面にほぼ限られ、本人の内心も、事件以前の人柄も書かれていないため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。