CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
徐邈
禁酒令の下で『中聖人』と言い放ち、涼州を豊かにして褒賞を分け与えた魏の清廉な酒好き
徐邈は、字を景山といい、燕国薊県の人です。曹操の禁酒令のもとで酔いつぶれ、政務を問われて「中聖人(聖人に当たった)」と答えて怒りを買いましたが、鮮于輔が取りなして罪を免れました。曹丕に「まだ中聖人をやっているのか」と問われたときも、酒を飲む理由を古人の例で答えて、曹丕を大笑いさせたと伝わります。太和2年(228年)に涼州刺史となり、塩池を整えて穀物と換え、水田を開いて倉を満たし、学校を立てて風俗を整えました。朝廷からの賞賜は皆、将士に分け与え、家に持ち帰らなかったといいます。嘉平元年(249年)に没しました。経歴は『三国志』魏書 徐邈伝をもとにしています。
字は景山。燕国薊県の人。曹操に仕えて禁酒令の下で酔い、『中聖人』と答えて咎められかけたが、鮮于輔に救われた。涼州刺史としては水田と塩池で穀物を蓄え、学校を立てて風俗を整え、褒賞は皆将士に分けた。司空の位を『老病の身で三公は務まらない』と辞し、嘉平元年(249年)に没した。
THE WAY OF LIFE
徐邈の生き方
禁酒令のもとで『中聖人』と言い、曹丕にも笑って答えた。人に合わせない愛嬌と、いつも変わらない骨の硬さを併せ持つ人です。
毛玠・崔琰の清廉の世にも、奢侈の世にも流されなかった。規律はやや自由な側に置いています。
持ち味と、その裏側
酒を隠さず、権力者にも飾らず答えた肝の据わり方と、涼州で水田・塩池・交易を組み立てた実務の手腕。羌・胡には小過を問わず大罪には筋を通す、信頼を得る裁き方。褒賞を分け与え、家を顧みない清廉。一方で、禁令を破って酔う型破りさがあり、法を重んじる側からは危うく見えた。挑戦は、新しい試みより守りを固めた統治が目立つため中程度に置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安(172年)〜嘉平元年(249年)
燕国薊県(現在の北京市付近)の人。字は景山。子は徐武。娘は王濬に嫁いだと伝わる。都亭侯、諡は穆侯。
- 燕国薊の人で、字は景山。曹操が河朔を平定すると丞相軍謀掾に召され、奉高県令を試用で兼ね、東曹議令史となった。建安18年(213年)に魏国が建てられると、尚書郎となった。
- 曹操の時代、禁酒令があった。徐邈は隠れて痛飲し、酔いつぶれた。校事の趙達が政務を問うと、徐邈は酔ったまま「中聖人(聖人に当たった)」と答えた。趙達がこれを曹操に伝えると、曹操は大いに怒った。
- 度遼将軍の鮮于輔が取りなして言った。「平素、酒飲みは清酒を聖人、濁酒を賢人と呼びます。邈は慎み深い性格で、酔って口走っただけです」。こうして罪を免れた。のち隴西太守となり、南安太守に転じた。
- 曹丕が即位し、許昌を巡行したとき、徐邈に「まだ中聖人をやっているのか」と尋ねた。徐邈は「昔、子反は穀陽で酔い、夜に逃げ出しました。御叔は酒を飲んで重税を課されました。臣の嗜好はこの二人と同じで、抑えられず、時にまた酒に当たります。ただ、それでかえって目をかけていただいております」と答えた。曹丕は大笑いし、側近に「名は虚しく立たない(噂通りだ)」と言った。
- 曹丕の代に、徐邈は譙国相、平陽太守、安平太守、潁川典農中郎将を歴任し、どこでも評判がよく、関内侯となった。のち撫軍大将軍の軍師となった。
- 太和2年(228年)、曹叡は涼州が遠く蜀に接しているとして、徐邈を涼州刺史、使持節、護羌校尉に任じた。着任すると、諸葛亮が祁山に出て隴右の3郡が反乱を起こした。徐邈は参軍と金城太守らを遣わし、南安の賊を破った。
- 河右は雨が少なく、穀物がいつも足りなかった。徐邈は武威・酒泉の塩池を整えて異民族の穀物と換え、水田を広く開いて貧民に耕させた。家々は豊かになり、倉は満ちた。州の軍用に余ったものは金帛・犬馬と交換し、中国の費用に供した。
- 民間の私兵器は少しずつ集めて府庫に納めた。そのうえで仁義を説き、学校を立てて教えを示し、厚葬を禁じ、淫祀を断ち、善を進め悪を退けた。風俗は大いに改まり、民は心から従った。西域との道が通じ、遠方の異民族が貢ぎ物を持ってきたのも徐邈の功だった。
- 羌の柯吾を討って功があり、都亭侯、食邑300戸、建威将軍の号を加えられた。羌・胡との交際では、小さな過ちは問わず、大罪は先に部族の長に告げ、納得させたうえで斬って示した。そのため民は信頼しつつ畏れた。
- 朝廷から与えられた賞賜は皆、将士に分け与え、家に持ち帰らなかった。妻子の衣食は足りなかったが、曹叡はこれを聞いて称え、折に触れて家に物を給した。邪を弾き、冤罪を正し、州内は静まった。
- 正始元年(240年)、洛陽に戻って大司農となり、司隷校尉に転じて百官に畏れられた。公事で職を去り、のち光禄大夫となった。数年後、司空に任じられたが、徐邈は「三公は道を論じる官で、その人がなければ欠けているものだ。老病の身で務まるものか」と嘆いて固辞した。
- のち鄭袤が司空に任じられて辞退するとき、徐邈の話を引いた。徐邈は勅使だった鄭袤に、「三公は天心に応じるべき位なのに、不適任の者を任じれば和気を損なう。死にかけた者が朝廷を辱めるわけにはいかない」と述べていたという。
- 嘉平元年(249年)、78歳で没した。公の礼で葬られ、諡は穆侯。子の徐武が継いだ。嘉平6年(254年)、魏の曹芳は徐邈・胡質・田豫の3人を、「歴事四世、忠清在公、憂国忘私、不営産業、身没之後、家無余財」と称え、家に穀物2000斛と銭30万を賜った。
- 盧欽は徐邈を、「志が高く行いが潔く、才は博く気は猛い。高くして激せず、潔くして角立たず、博くして約を守り、猛くして寛い」と評した。「毛玠・崔琰が清廉を尊んだ頃、官吏は布衣に着替えて名を取ろうとしたが、徐公は変わらなかった。のち奢侈の世になっても変わらない。世が変わるだけで、徐公は常に変わらない」とも語った。陳寿は「清尚弘通」と評している。
- 徐邈は絵にも巧みで、本物と見紛うほどの水獺を描いたという伝えがあるが、『三国志集解』の盧弼は、曹丕の侍臣になったことがないとして疑う。また、後世には、徐邈が使ったという酒の器『景山枪』の名が、詩や『南斉書』に残った。
主な出典
『三国志』魏書 徐邈伝(百度百科が引く本文)、盧欽の評、『南斉書』、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
禁酒令の下で酔い、世の流れに従わず自分の流儀を通した姿から、規律はやや自由側に置いています。州の統治では禁厚葬や学校の整備など、秩序を作る働きもしています。
褒賞を将士に分け、妻子の衣食が足りなくなるほど私を持たなかった行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。