CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張超
臧洪を重く用い、雍丘で援軍を待って散った広陵太守
張超は、兗州東平郡寿張県の人で、広陵太守を務め、陳留太守・張邈の弟です。董卓が少帝を殺すと、臧洪の勧めで兄とともに決起し、反董卓の連合軍に加わりました。194年、曹操が徐州へ出た隙に、兄や陳宮と呂布を兗州牧に迎えて反乱を起こしますが、翌年、雍丘に籠もって曹操に囲まれ、12月に落城して自害しました。救援を袁紹に断られた臧洪が、袁紹と決別する、きっかけとなった人物です。経歴は『三国志』などをもとにしています。
兗州東平郡寿張県の人。兄は張邈。字は不明で、『三国志演義』の一種(嘉靖本)では「孟高」とされる。広陵太守となり、臧洪や袁綏を迎えた。董卓が少帝を殺すと、臧洪から、この時こそ義士が国に報いる好機だと勧められ、兄のいる陳留へ赴いて挙兵を相談し、酸棗で連合軍に加わった。盟の誓詞は、居並ぶ諸侯が互いに譲り合う中で、臧洪が任された。194年夏、曹操が徐州へ遠征した隙に、陳宮らや兄と謀って呂布を兗州牧に迎え、反乱を起こした。一時は兗州の大半が従ったが、翌195年に曹操が盛り返し、呂布は敗れて東へ逃れた。張超は、兄の命で家族とともに雍丘に籠城し、8月から曹操に囲まれ、12月に落城して自害した。一族は皆殺しにされたと記される。
THE WAY OF LIFE
張超の生き方
臧洪を、広陵の政務の中心に据えた。兄の張邈に理由を問われると、「臧洪は才略や知謀が私より優れた、海内の奇士で、深く愛している」と答えた。雍丘が囲まれたときには、「頼れるのは臧洪だけだ。子源は天下の義士で、背く人ではない。袁紹に止められて、間に合わないだけだ」と、周囲に語ったと伝わる。
雍丘の城に立てこもり、数か月にわたって曹操の攻撃に耐えた。待っていたのは、臧洪が袁紹に願った援軍だったが、袁紹はそれを許さず、城は落ちて張超は自害した。
持ち味と、その裏側
人を見て任せる目。臧洪の才を見抜き、重く用いた。その臧洪は、張超への恩を最後まで尽くし、袁紹に背いて殺された。一方、194年の反乱は、一時は兗州の多くを得ながら長く保てず、一族の滅亡という結果に終わった。徐衆は、呂布を勝手に州牧に立てたことを「王法では罪人」と評し、王夫之は、張邈兄弟が呂布と組んで曹操の兗州を奪ったことを批判した。史料は断片的で、人物像は多くが分かっていない。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜195年12月(暦の換算では196年の年初)
兗州東平郡寿張県の人。兄は張邈。
- 広陵太守の頃: 臧洪や袁綏を迎える。臧洪を政務の中心に据えた。
- 190年: 董卓が少帝を殺すと、臧洪の勧めに従い、兄・張邈のいる陳留へ赴いて挙兵を相談する。酸棗で連合軍に加わった。盟の誓詞は、諸侯が譲り合う中で臧洪が任され、立派に務めた。
- 194年夏: 曹操が陶謙を討つために徐州へ遠征した隙に、陳宮・許汜・王楷らと兄とで謀り、呂布を兗州牧に迎えて反乱を起こす。
- 195年: 曹操が盛り返し、呂布は敗れて徐州へ逃れる。張邈は呂布に従い、張超は家族とともに雍丘を守った。8月、曹操が雍丘を囲む。
- 195年12月: 雍丘が落城し、張超は自害した(曹操に斬られたとする記述もある)。三族が滅ぼされた。兄の張邈は、袁術に救援を求めに行く途中で、部下に殺された。
- 後日: 臧洪は、張超を救えなかった恨みから袁紹と決別し、東武陽に籠城した。
主な出典
『三国志』魏書「呂布臧洪伝」(張邈伝・臧洪伝)、武帝紀、『後漢書』呂布伝。経歴は Wikipedia「張超 (広陵太守)」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
兄や陳宮と謀り、曹操の留守を狙って反乱を起こした経緯から、規律は混沌寄りに置いています。
兄との連携と、臧洪のような人材への信頼で動いたことから、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。