CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張紘
孫策に江東を勧め、建業への遷都を遺言にした文人参謀
張紘は、字を子綱といい、徐州広陵郡射陽県の人で、張昭と並んで「江東の二張」と呼ばれました(これは小説の呼び方です)。太学で学び、何進らの招きを受けても出仕しませんでしたが、戦乱を避けて江東に移り、孫策が挙兵すると初めて仕官しました。建安5年(200年)に孫策が没すると、曹操が喪につけ込んで攻めようとしましたが、張紘が進言して、取りやめさせたと伝わります。孫権の代には、秣陵(のちの建業)への遷都を進言し、建安16年(211年)に実施されましたが、家族を迎えに行く途中で病に倒れ、まもなく亡くなりました。享年は六十と伝わります。経歴は『三国志』呉書 張昭伝(張紘伝を附す)をもとにしています。
徐州広陵郡の人。張昭と並び「江東の二張」と呼ばれた。孫策の挙兵を勧め、曹操の使者も務めた。孫権の代には秣陵(建業)への遷都を進言し、その途中で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
張紘の生き方
主君を立てて、危うい時には諫めた。張紘は、表に立たずに家を支える人物像です。
文章に優れ、曹操や孔融とも交わった。表現の高さと構想の高さに、その教養を重ねています。
持ち味と、その裏側
文章と外交の力と、遠くを見る構想。孫策・孫権の二代にわたり、主君の軽率な動きを諫めた誠実さ。一方で、自分で兵を率いて切り開く場面はなく、助言する立場にとどまった人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜建安16年(211年)頃(享年60と伝わる)
徐州広陵郡射陽県の人。字は子綱。子に張靖・張玄。孫に張尚。
- 徐州広陵郡射陽県の人で、字は子綱。都に出て学問を修め、太学で博士の韓宗に学んで、儒教の経典に通じたと伝わる。何進・朱儁・荀爽らの招きを受けたが、出仕しなかった。郷里に戻ると、太守の趙昱に孝廉、のち茂才に推された。
- 戦乱を避けて江東に移った。孫策が挙兵すると、初めて仕官した。裴注が引く『呉暦』は、母の喪中だった張紘を孫策が自ら訪ねて、丹陽を足がかりに江東を取るよう求めたと伝える。
- 孫策は上奏して、張紘を正議校尉に任じた。丹陽の討伐に従い、孫策が自ら陣頭に立つのを諫めた。張昭・秦松・陳端とともに、孫策の参謀を務めた。呂布が張紘を茂才に招いたときは、孫策が代わりに断りの書簡を送り、張紘を引き留めた。
- 建安4年(199年)、孫策の使者として許都へ赴いた。曹操は張紘に侍御史の位を与えて、留まるよう求めた。張紘は孔融らと親しく交わった。
- 建安5年(200年)に孫策が没すると、曹操は喪につけ込んで攻めようとした。張紘は、喪に付け込むべきではないと進言し、曹操は出兵を取りやめたと伝わる。
- 孫権の代には、会稽東部都尉に任じられた。曹操が張紘を九江太守にしようとしたが、病を理由に固辞したという。孫権から厚く信任され、「東部」と尊称された。孫権の母の呉夫人は、息子を張紘に託した。張昭とともに、計略と外交を担い、二人のどちらかが随行すれば、もう一人が留守を守ったと伝わる。
- 孫権の日常の振る舞いを諫めて改めさせた。江夏遠征では都の留守を任され、孔融が功績をたたえる手紙を送った。合肥の出兵には長史として従い、軽装の騎兵だけで前線に出ようとした孫権を戒めた。翌年の再出兵のときにも、再び諫めた。
- 文章に優れ、文書の起草や記録に携わった。詩や賦の作品も多く残した。陳琳に賞賛されたと『呉書』は伝える。
- 呉郡から秣陵(のちの建業)への遷都を進言し、建安16年(211年)に実施された。張紘は、孫権の家族を呉郡へ迎えに行く途中で病に倒れ、まもなく亡くなった。享年は六十と伝わる。
- 亡くなる前に、子の張靖に遺書を託した。孫権はそれを読んで、涙を流したという。『三国志演義』は、張昭と張紘を「江東の二張」として描くが、この呼び方は小説の設定である。
主な出典
『三国志』呉書 張昭伝(張紘伝を附す)、裴松之注に引く『呉書』『江表伝』『呉暦』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
主君を礼で諫め、孫家の守りに徹した姿から、規律は秩序寄りとしています。
孫策の喪中に曹操の侵攻を止め、孫権を諫め続けた記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。