CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
張燕
山の群盗を率いて、生き延びる道を選んだ人
張燕は、黄巾の乱のなかで群盗を率い、衆百万と号して「黒山」と呼ばれた人物です。のち朝廷に降って平難中郎将に、曹操に使者を送って平北将軍・安国亭侯に任じられ、家は曾孫の代まで続きました。陳寿は、群盗から功臣に列し、祭祀を保ったことを評価しています。ここでは、形勢を読む決断と人を束ねる統率を、性格を読み解く手がかりとしています。
黒山賊の頭領。「飛燕」の異名で知られ、百万と号する勢力を率いたが、のち曹操に降って侯に封じられ、家を保った。
THE WAY OF LIFE
張燕の生き方
身軽で、勢いのあるうちに動く。張燕は、素早い決断と、人を束ねる統率力を備えた人物像です。
朝廷に降ったり、群雄に味方したり、形勢を見て立場を変えた。規律の低さと、決断・統率の高さに、その柔軟さを重ねています。
持ち味と、その裏側
形勢を素早く読む決断力と、多くの人を束ねる統率力。一方で、立場を変え続けるため、何を守るのかを自分の中で定めておくことも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(後漢末〜曹操の時代)
冀州常山郡真定県の人。本姓は褚。
- 常山郡真定の人。本姓は褚。黄巾の乱が起こると、少年たちを集めて群盗となり、山や沢を転戦して、一万余の衆を率いて真定へ戻った。
- 博陵の張牛角も兵を起こして合流した。燕は牛角を帥に推したが、牛角は癭陶を攻める最中に飛矢に当たり、死ぬ前に「必ず燕を帥とせよ」と言い残した。牛角が死ぬと、衆は燕を奉じ、燕は姓を張に改めた。
- すばしこく、勇ましさは人に過ぎたため、軍中では「飛燕」と呼ばれた。『典略』は、黒山や黄巾の頭領たちが、身軽な者を「張飛燕」、声の大きな者を「張雷公」と、仇名で呼び合ったと記す。
- 勢力は広がり、常山・趙郡・中山・上党・河内の山谷がつながった。孫軽・王当ら小帥も従い、衆は百万と号して「黒山」と呼ばれた。霊帝は討てず、河北の諸郡が害を被った。燕は都に使者を出して降伏を願い、平難中郎将に任じられた。
- 董卓が天子を長安に遷し、天下で兵が起こると、燕は衆を率いて豪傑たちと結んだ。袁紹と公孫瓚が冀州を争うと、将の杜長らを遣って公孫瓚を助けたが、袁紹に敗れ、衆は次第に散った。
- 建安4年(199年)、易京で袁紹に囲まれた公孫瓚は、子を黒山賊のもとへ救援に遣わした。『典略』は、瓚が子に、張燕に頭を下げて軽騎を急いで連れてこい、と書き送ったと伝える。この書状は袁紹の斥候に奪われ、公孫瓚は偽の火に誘い出されて大敗した。
- 曹操が冀州を平定しようとする頃、燕は使者を送って官軍を助けたいと願い、平北将軍に任じられた。衆を率いて鄴へ行き、安国亭侯に封じられ、五百戸を与えられた。
- 燕が没すると、子の方が、方の次は子の融が継いだ。曾孫の張林は、晋で尚書令・衛将軍にまで昇ったが、趙王倫の乱に加わり、倫に殺された(陸機『晋恵帝起居注』)。
- 陳寿は、張燕・張繡・張魯について、群盗の身を捨てて功臣に列し、危亡を去って先祖の祭祀を保ったのは、領地に割拠したほかの群雄よりも優れている、と評した。
主な出典
『三国志』魏書 張燕伝(裴松之注に引く『九州春秋』『典略』『晋恵帝起居注』を含む)、魏書 公孫瓚伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
朝廷の官職も受けつつ、山の勢力を保った姿から、規律は裁量寄りとしています。
部下を守り、家を残す道を選んだ姿から、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。